小学校6年生が自殺を図り、その原因に苛めを受けていたことの可能性があるとの報道があった。また、数日前には16歳の女性達が中心のグループが集団でリンチ殺人と死体遺棄事件を起こしたとの報道があった。仲の良かった友人間のネットでの口論が出発点にあり、その後自首した犯人達には確固とした罪の意識がなかったということである。このような事件の報道を視聴すると、今の若い人たちの人間関係がガラスのように壊れやすく、しかし彼らはそれに強く依存して生きていることが判る。その原因分析と対策はちょっと掘り下げたところで可能であっても、マスコミの評論家諸氏からは何も出てこない。
何故このような事件を産む社会になったのか?その原因となって居る筈の、過去と現在の違いは何なのか? 大きな差のひとつとして、子供達が接触する人の年齢分布が非常に狭くなって来ていることである。携帯電話からスマホになって、”会話らしきもの”が瞬間的に仲間内で広がるようになった今、子供達は、主に未熟で層状の人間関係の中で生きることになっていると思う。また、親は常に必要なものを供給してくれる存在ではあるが、子供達は(経済発展した社会の中で)その苦労をあまり見ないため、丁度空気のような存在になっている。その結果、親はその層状の人間関係の中に割り込んで、我が子との接触を取り戻すことが不可能になっているのではないだろうか。また、学校の先生達も子供を指導するというよりは、問題を生じないことに神経のほとんどを使うため、子供達の人間関係の外に存在しているのではと想像する。 本来人は、幼少期より親を含めて回りの人間との摩擦により、自分を意識し、成長して独立した人格を持つ様になる。その機会を子供達から奪っているのが、(橋下市長の批判する)機能していない教育システムやクレイマー的親に対抗出来ない教師達による、子供たちを”腫れ物に触らず的”に教育するという放任教育ではないだろうか? 本来人間関係は3次元プラスアルファにわたって広がっている。二つの次元は平面をなし、クラスメートなど同世代がつくる水平面の人間関係である。また上下関係は、社会の秩序を守るために、そして人が子供から大人に成長する為に必要である。最後のプラスアルファは異質であるが、本の中で出会ったり、過去の人に学んだり、或は、聖典による神や仏との出会いなどである。平面の人間関係の中に閉じ込められた人が大半になってくるとすると、この国には未来は無い。"twitter"というのは小鳥のさえずりの意味で、言葉とはいえ無いことをしっているのだろうか?LineでTwitterして出来た関係が主な人間関係では、人は育つ筈がない。十分な言葉を持たない若者に携帯を持たせてはいけない。
サイモンとガーファンクルの歌に、Sound of Silence というのがある。難解な歌詞であるが、その中に: Ten thousand people maybe more. People talking without speaking. People hearing without listening. というのがある。日本人にはtalkとspeakの違いが、そしてhearとlistenの違いが判らない人がおおいだろう。Speakとlistenを行動においても使い分ける習慣がなく、そして、Twitterで情報伝達した気になっている毎日なら、まともな人間は育たない。更に、それを政治家が選挙民への情報発信の手段にしているのでは、我国はまともな国には成長しない。日本語があまりにも貧弱な言葉であることも上記の異常な世界の成因の一つである。 (http://islands.geocities.mopyesr/kotoba.html)
最後に私の気持ちをSound of Silenceの中から:
"Fools" said I. You do not know ーーー。(7/28文章を修正)
何故このような事件を産む社会になったのか?その原因となって居る筈の、過去と現在の違いは何なのか? 大きな差のひとつとして、子供達が接触する人の年齢分布が非常に狭くなって来ていることである。携帯電話からスマホになって、”会話らしきもの”が瞬間的に仲間内で広がるようになった今、子供達は、主に未熟で層状の人間関係の中で生きることになっていると思う。また、親は常に必要なものを供給してくれる存在ではあるが、子供達は(経済発展した社会の中で)その苦労をあまり見ないため、丁度空気のような存在になっている。その結果、親はその層状の人間関係の中に割り込んで、我が子との接触を取り戻すことが不可能になっているのではないだろうか。また、学校の先生達も子供を指導するというよりは、問題を生じないことに神経のほとんどを使うため、子供達の人間関係の外に存在しているのではと想像する。 本来人は、幼少期より親を含めて回りの人間との摩擦により、自分を意識し、成長して独立した人格を持つ様になる。その機会を子供達から奪っているのが、(橋下市長の批判する)機能していない教育システムやクレイマー的親に対抗出来ない教師達による、子供たちを”腫れ物に触らず的”に教育するという放任教育ではないだろうか? 本来人間関係は3次元プラスアルファにわたって広がっている。二つの次元は平面をなし、クラスメートなど同世代がつくる水平面の人間関係である。また上下関係は、社会の秩序を守るために、そして人が子供から大人に成長する為に必要である。最後のプラスアルファは異質であるが、本の中で出会ったり、過去の人に学んだり、或は、聖典による神や仏との出会いなどである。平面の人間関係の中に閉じ込められた人が大半になってくるとすると、この国には未来は無い。"twitter"というのは小鳥のさえずりの意味で、言葉とはいえ無いことをしっているのだろうか?LineでTwitterして出来た関係が主な人間関係では、人は育つ筈がない。十分な言葉を持たない若者に携帯を持たせてはいけない。
サイモンとガーファンクルの歌に、Sound of Silence というのがある。難解な歌詞であるが、その中に: Ten thousand people maybe more. People talking without speaking. People hearing without listening. というのがある。日本人にはtalkとspeakの違いが、そしてhearとlistenの違いが判らない人がおおいだろう。Speakとlistenを行動においても使い分ける習慣がなく、そして、Twitterで情報伝達した気になっている毎日なら、まともな人間は育たない。更に、それを政治家が選挙民への情報発信の手段にしているのでは、我国はまともな国には成長しない。日本語があまりにも貧弱な言葉であることも上記の異常な世界の成因の一つである。 (http://islands.geocities.mopyesr/kotoba.html)
最後に私の気持ちをSound of Silenceの中から:
"Fools" said I. You do not know ーーー。(7/28文章を修正)