人の命に値段を付けて良いのか、どのように付けるか、付けるべきではないのか? 我国では、「人の命は地球より重い」という言葉で、この議論が封印されてきた。第二次大戦の時、人の命が軽く扱われたことが民族のトラウマとなり、「命」を”値段”注1)という言葉と伴に用いることが全く出来なくなったのである。
今日の中日新聞(7/17, 18頁)に、自民党石破茂氏による憲法9条改訂と軍法会議の創設に関する発言が掲載されていた。軍法会議でも死刑ということもあり得るとある。軍隊における兵士は、自由も人権もなく、大砲の弾と同じ消耗品として扱われる。従って、兵役の間は自分の命をレンタルに出すようなものである。命に無限の価値があるとすれば、軍は成立しない。私は、日本国民に軍を持つ準備など出来ていないと思う。つまり、だまし討ち的でなければ、憲法9条を改め自衛軍を持つことは不可能だろう。
もし日本軍が正式に創設されたなら、兵役と納税は成人男性の二大義務となる。この議論になると一部に:1)米国だって今は徴兵制をとってない;2)現在はボタン操作で爆撃機を操作する時代であり、徴兵で得た兵士など役立たない;3)戦争に巻き込まれない為の軍備である;などという意見がある。それらは憲法改訂への風圧を弱めるための詭弁である。つまり、だまし討ち改訂のための準備である。国際情勢の変化により自国軍創設が必須であるという情況になれば、今の自衛隊と異なり相当数の戦死者が出る筈である。戦争以外に国内の暴発を防ぎ様が無いという國がもし隣に出現したなら、3)の論理は成立しない。
防衛大学校卒業者の自衛軍への参加が義務化されると、入学者が激減するだろう。米国のように “命の値段”が有限であり、注2)且つ、志願者が世界最強の軍隊へのサービスであると思えば、兵に応募することは比較的簡単かもしれない。しかし日本では、韓国のように徴兵制を設ける以外に、自衛軍を維持することは困難だろう。
本文章は、戦争反対、憲法9条改悪反対を呼びかけるためではない。過去の戦争から2世代過ぎた今、命の価値も有限であることを、国民全てが冷静に議論して考える必要があると言いたいのである。また、政治家も9条を改訂するには何が必要な準備であるか”命を懸けて”考えてもらいたいのである。英語に、pricelessという単語がある。本来の意味は文字通り「値段がつけられない」であるが、使われる場面に応じて、「極めて高価な」から「馬鹿げた」まで変化する。ピカソの絵なら、文字通りpricelessでも良いが、国民すべてにかかわること、例えば産業の根幹にかかわるネネルギー問題や外交問題の根本にある自国軍の創設に関して考える場合、命はpricelessであってはならないのではないだろうか。
ところで、命に値段が付けられない理由は、「自分の命に関して、自分と他人では将に雲泥の差がある」ということである。自分と他人のそれぞれ命の価値の比は、二人が無関係な場合、プラス無限大となる。しかし、自分の命の価値は決して無限大ではないことは、親族の命と比較する時に気が付く。つまり、人と人の関係(人と国家との関係)が、命の値段を相対的に決めるのである。社会の恩恵を受けて生きているという自覚が、自分の命の価値は決して無限大でないと教えるのである。戦後命の値段が地球より重くなったのは、人と人の間に、特に、役人(=国家)と一般人との間に不信感が根付いたためである。つまり、憲法改訂を目指すなら、政治家はこの不信感の由来と払拭法を徹底的に研究すべきである。あの大戦に関して、独自の復習が全く為されていない我が国は、正面からは憲法9条を改訂することが不可能である。戦争直後、日本国民はマッカーサーをむしろ歓迎したという。国民が、他国の軍隊の下にいる方が、自国軍に参加して戦うよりも自分や親族の命の助かる確率が高いと思ったことを意味する。この自国政府に対する不信感は、その時と比較しても全く解消していない。石破さんもその鋭い目を、その情況の把握と問題解決に向けたらどうか。維新の志士のように、旧来の権威や常識にとらわれない政治家が未だ非常に少ない中、自民党の圧勝で終われば、日本の将来は遠分暗いままであるだろう。
注1)元々“お金”は、人と人が相互扶助を行う際、互いの信用の印として出来たものである。“値段”はこの大きさの意味である。
注2)例えば、大学への奨学金付与などという特典と自分の命を失う“低い”確率x自分の命の値段の比較が成立する。
今日の中日新聞(7/17, 18頁)に、自民党石破茂氏による憲法9条改訂と軍法会議の創設に関する発言が掲載されていた。軍法会議でも死刑ということもあり得るとある。軍隊における兵士は、自由も人権もなく、大砲の弾と同じ消耗品として扱われる。従って、兵役の間は自分の命をレンタルに出すようなものである。命に無限の価値があるとすれば、軍は成立しない。私は、日本国民に軍を持つ準備など出来ていないと思う。つまり、だまし討ち的でなければ、憲法9条を改め自衛軍を持つことは不可能だろう。
もし日本軍が正式に創設されたなら、兵役と納税は成人男性の二大義務となる。この議論になると一部に:1)米国だって今は徴兵制をとってない;2)現在はボタン操作で爆撃機を操作する時代であり、徴兵で得た兵士など役立たない;3)戦争に巻き込まれない為の軍備である;などという意見がある。それらは憲法改訂への風圧を弱めるための詭弁である。つまり、だまし討ち改訂のための準備である。国際情勢の変化により自国軍創設が必須であるという情況になれば、今の自衛隊と異なり相当数の戦死者が出る筈である。戦争以外に国内の暴発を防ぎ様が無いという國がもし隣に出現したなら、3)の論理は成立しない。
防衛大学校卒業者の自衛軍への参加が義務化されると、入学者が激減するだろう。米国のように “命の値段”が有限であり、注2)且つ、志願者が世界最強の軍隊へのサービスであると思えば、兵に応募することは比較的簡単かもしれない。しかし日本では、韓国のように徴兵制を設ける以外に、自衛軍を維持することは困難だろう。
本文章は、戦争反対、憲法9条改悪反対を呼びかけるためではない。過去の戦争から2世代過ぎた今、命の価値も有限であることを、国民全てが冷静に議論して考える必要があると言いたいのである。また、政治家も9条を改訂するには何が必要な準備であるか”命を懸けて”考えてもらいたいのである。英語に、pricelessという単語がある。本来の意味は文字通り「値段がつけられない」であるが、使われる場面に応じて、「極めて高価な」から「馬鹿げた」まで変化する。ピカソの絵なら、文字通りpricelessでも良いが、国民すべてにかかわること、例えば産業の根幹にかかわるネネルギー問題や外交問題の根本にある自国軍の創設に関して考える場合、命はpricelessであってはならないのではないだろうか。
ところで、命に値段が付けられない理由は、「自分の命に関して、自分と他人では将に雲泥の差がある」ということである。自分と他人のそれぞれ命の価値の比は、二人が無関係な場合、プラス無限大となる。しかし、自分の命の価値は決して無限大ではないことは、親族の命と比較する時に気が付く。つまり、人と人の関係(人と国家との関係)が、命の値段を相対的に決めるのである。社会の恩恵を受けて生きているという自覚が、自分の命の価値は決して無限大でないと教えるのである。戦後命の値段が地球より重くなったのは、人と人の間に、特に、役人(=国家)と一般人との間に不信感が根付いたためである。つまり、憲法改訂を目指すなら、政治家はこの不信感の由来と払拭法を徹底的に研究すべきである。あの大戦に関して、独自の復習が全く為されていない我が国は、正面からは憲法9条を改訂することが不可能である。戦争直後、日本国民はマッカーサーをむしろ歓迎したという。国民が、他国の軍隊の下にいる方が、自国軍に参加して戦うよりも自分や親族の命の助かる確率が高いと思ったことを意味する。この自国政府に対する不信感は、その時と比較しても全く解消していない。石破さんもその鋭い目を、その情況の把握と問題解決に向けたらどうか。維新の志士のように、旧来の権威や常識にとらわれない政治家が未だ非常に少ない中、自民党の圧勝で終われば、日本の将来は遠分暗いままであるだろう。
注1)元々“お金”は、人と人が相互扶助を行う際、互いの信用の印として出来たものである。“値段”はこの大きさの意味である。
注2)例えば、大学への奨学金付与などという特典と自分の命を失う“低い”確率x自分の命の値段の比較が成立する。