A)人と人がことばを用いて自分達の意志を交換することは簡単か?
 我々人間は同じことばを話せば、互いの意志疎通は難しくないと思っている。本当にそうだろうか? もし、我々が共通の言葉を持たなかったら、自分の意志を相手に伝えることは殆ど不可能だろう。しかし、言葉が同じ日本語で、同じ利益を追求しているにも拘らず、相手と同じ認識に至るのは意外と困難なことは多い。同じ会話の土俵を構築でき、その上でのstep-by-stepの議論があれば、おそらく同じ結論に至ることが可能だった筈と思えてもである。1) つまり、同じことばを話しているのだから、同じ議論の土俵の上にいる筈であるという思い込みが、意志疎通の障害になっているのではないだろうか。

 たとえ話を用いてみる。二人がある人を尋ねて知らない土地への道を探す場合、同じ地図を見ながらだと電話でも相談が出来る。もし地図を持たなかったら、話は全く通じないだろう。一人が良く知った町のある喫茶店を、同じ町に住むもう一人にその場所を案内する場合も同様である。「あの道を右に曲がって二つ目の交差点の東南の角にある店」という会話で、二人は用いているのは頭の中にある地図であり、共通の地図を用いていることに変わりはない。会話は突詰めて考えると、この場所探しに似ている。つまり、最も頻繁に行われるタイプの会話は、二人が何か共通のものを求めて探す作業であると考えられる。2) ただ、同じことばを話すだけでは、実は共通の地図を手元に持つところまでいっていないことに、多くの場合気がつかないのである。

 例えば、「人を殺しては何故いけないか?」という疑問文に対する答えを探す作業、つまり会話、をしているとしよう。このような単純に思える疑問でも、答えを探すことは困難である。その理由は、我々は共通の言語をもっているようで、実はその言葉が微妙に或は大きく異っており、この疑問文をおなじ様に理解していないのである。つまり、この文章で、“いけない”、 “人”、“殺す”という3つの単語に関して、最初に浮かぶ意味は人によっていろいろあり得る。3) 例えば“いけない”だけでは、宗教的にいけないのか、道徳的にいけないのか、法的にいけないのか判らない。また、そもそも宗教、道徳、法律なども人により受け取り方が違う。英語ではkill、murder、slayなどいろんな“殺す”がある。対象が人であっても、場合によっては個人や状況の特定が無い場合、殺してはいけないかどうか判らなくなる。つまり、上記問題に関して議論する際、「じゃ、戦争でも敵兵を殺すことはいけないことなの?」という疑問が現れるまで、文章の曖昧さに気がつかないのである。

 結論として、問題の解決には、先ず、会話における共通の土台を作る作業をして(単語の定義などや、互いの立場の違いの確認)からでないと、むつかしいのである。このことを十分意識して世の中で責任ある立場の人は発言してもらいたい。
注釈)
1)二二六事件の映画の場面、「話せば判る」と犬飼首相が言ったとき、青年将校らは「問答無用」と言って、銃の引金を引いた。両者とも日本国の安泰と国民の豊かさいう共通の利益についての対立であった筈である。
2)そうでない会話も実は多い。そのタイプの会話はここでは除外する。
3)一般に、人により受け取り方の違う可能性のある日本語の文章は、英語に翻訳した場合、多くの表現があり得るため、例えば単語の、選択に迷ってしまう。