TPPは環太平洋パートナーシップ(TRANS-PACIFIC PARTNERSHIP)の略称である。 貿易だけでなく経済関係一般について出来るだけ共通のルールで国を運営し、関税などの障壁をゼロにもっていき、それによって加盟各国の雇用創出と経済の発展を一層確実なものにしようというものである。従って、TPPの締結後一定期間経てば、最終的には価値観の共有と規制の撤廃を通して、ある地域で得意な経済分野はその地域が多く分担するという形になって行く筈である。不公正な制度が残っていれば、それは一定期間の内に公正なものに変えて行く覚悟が必要である。ここで、”公正”は、自由と合理的なルールという物差しで計られると考えられる。従って、米国が勝手に決めるのではないかという危惧は、会議などでの発言を放棄するのなら兎も角、一定の交渉力を持つ国には不必要だと考える。
 日本には多くの不公正が存在し、それにより利益受けその体制を守ろうとする勢力が存在するのは事実である。それらの勢力は、TPPを恐れるのは当然である。例えば、田舎の兼業農家が減反保証金などを受けるために小規模な田畑を維持することが、公正である筈がない。一票の格差を大きく維持することで、結果として農協、特定郵便局長会、日本医師会などの声を大きくし、都市部に住む日本の産業を支えている大勢の声に規制を加え、前者と結託した政治屋どもが維持してきたのである。護るべきは、他国よりも進んだ制度(例えば国民皆保険制度など)であるが、それらは“一般大衆の為になる”という正当性が大きな力となり、毀損されることは無い筈である。
 いろんな形の怪しげな意見が反対理由として出されている。その代表的なものには農作物の輸入関税を護るための食料安保論や、混合医療を解禁すると日本の医療保険制度が潰れるという国民皆保険破綻論である。また、いろんな反対勢力が共通して出している、「中国などとの経済関係の方が大きいのに、何故TPPなのだ」というTPP不要論である。先ず食料安全保障であるが、農業を過保護状態に維持することによっては食料安保は達成されないことを我々は知るべきである。話を簡単にするために、米中心の食生活を考えてみる。宮沢賢治の詩(雨にも負けず)にあるように、一人一日あたりの食料として5合(0.7 kg)の米が必要である。この量は、日本全体で一年に3000万トンとなり、現在の産出量はこの30%程度に過ぎない。また、江戸時代から今日まで、それだけの米を産出したことはない。つまり、過去一貫して国民の一部は飢えていて、その貧しさが人口を低く抑えて来たのである。現在、先進工業国となり貿易により外貨を稼ぎ、強い円でもって食料を輸入することが可能になった。つまり工業における競争力により、食料安全保障が達成されているのである。その「強い経済をどう維持するか」という課題の中の一環として、我々はTPPを考えなければならない。牛肉の全頭検査とか、残留農薬とか、そのようなものに関するルールは専門家が議論すれば良いことである。米国の牛肉をあの自己主張の強い米国人が食べている事実をもっと重視すべきである。
 次に、日本医師会が反対している混合診療の解禁について一言。混合診療の禁止は単に患者側の不利益というだけでなく、保険診療が認められている部分についても一旦リストにのっていない治療法を併用すれば保険適用できないというのは、やはり論理的に無理があると思う。保険でカバーする部分による保険費用は、手術ロボット、MRI、重イオン治療(保険が効かない?)などの医療法の発展による費用の全般的な高額化の問題とともに、別途議論すべきである。日本医師会(開業医の加盟する団体)が反対するのは、単に患者が大きな病院に流れてしまうことを危惧しているとしか私には思えない。
 中国が第一の貿易相手国であり、何を今更米国中心の窮屈な制度に加盟するのか?と言う議論には、「我が日本国は、今後とも中国を第一の経済パートナーとしてやって行けますか?」について、真剣に答を探せば自ずと明らかだろう。TPPは環太平洋パートナーシップであり、経済だけに限ったものではない。日本国は現在、法と正義、自由と自立などの欧米の価値観を受け入れている。米国は米国の利益を第一に主張するだろう。しかし、TPPに参加しているのは多くの分野で価値観を共有している国々であり、一参加国による非論理的なゴリ押しが通ったとしたら、それはその他の国々の交渉力のなさが大きな原因の一つであると思う。日本国の国際的交渉力の欠如に関しては、日本独自に解決するしかない。
 以上、TPPには恐れず予断を排して交渉に参加すべきと考える。