大阪の高校バスケット部でのコーチの体罰が問題になり、議論されている。問題の本質は、バスケットボール部という組織の成績と、そのチームを構成する個人への組織リーダ(ここではコーチ)からの体罰、及び基本的人権との関係である。そこで、組織と構成員への罰について考察してみる。
我々が所属する、もっとも大きな且つ明確な組織として、国家がある。国家にはルールがあり、国家の繁栄に尽くしたと評価された場合に褒賞が、犯罪を犯した者へは刑罰が、そのルール(法)に従って与えられる。当然のことであるがこの個人への褒賞や刑罰は、一般には国境を超えて成立しない。その次に大きな組織として会社が頭に浮かぶ。この中では、類似の関係として勤務成績の善し悪しと褒賞及び刑罰と類似したものとしての昇減給及び昇進解雇がある。個々のケースでの当否軽重に対する異議があっても、これらの関係そのものに異議を申し出る人は皆無だと思う。
ここで注目したいのは、この二つの組織に同時に所属している人が行ったある行為において、その評価の正負軽重が異なる場合が多いということである。極端な例として、マイナスイオンによる空気清浄効果などは科学的根拠がなく詐欺同然だといえるが、その装置の開発販売は会社に大きな利益をもたらせ、従って開発者は高く評価されたと思われる。(マイナスイオンについてはWikipedia参照)つまり、ある組織内でのその成績によって定まる評価が必ずしも組織の外の評価と一致しないということである。もちろん、国家の定めた法が優先するのは言うまでもない。
さて、その組織であるが、明確に意識される場合もあれば、当事者以外には殆ど組織と意識されない場合がある。今回自殺者を出した、高校の運動部は、一般的には殆ど組織とは意識されない場合であり、従ってそこでの罰の当否はそれを包含する一般社会の常識に照らし合わせて考察及び報道されている。この常識はルールというより、日本の文化における慣習のようなものである。ここで、私がかなり疑問に思うのは、今回の高校運動部の実態を一般的な学校のクラブ活動の様に捉えて良いのだろうか; そして、このような専門的で既に高度なレベルに達している高校運動部は、目的を持った明確な組織であり、その組織の慣習としてビンタ程度は許容するものがあるのではないかという点である。つまり、相撲界のような組織ではないのか?という疑問である。そのような組織であれば、一般社会の常識と感覚をそのまま用いて、今回のコーチの指導を評価することが出来ないのではないだろうか。また、そこに所属するときに、そのような組織の慣習を承知した上で選択した可能性はないのだろうか。もしそうなら、その組織から離れる自由があるのだから、その可能性があることを教え、選択を考えるように指導すべきではなかったのか?
一流のレベルになるには、何においても非常に厳しい訓練や努力を要する。そして、一流になった喜こびの裏に、数倍の苦悩と挫折とがあるのが普通である。そのような世界の慣習を、一般社会の常識でもって裁くことは、次の世代の一流のレベルの国際社会に比較しての低下をもたらし、この国の活力を削ぐことになるのではないかと危惧する。つまり、この国の高いレベルの技術、科学、スポーツ何れにしても、一般社会の常識から遠くはなれたところでの努力の結果であると思う。もちろん分野により組織によりその常識や賞罰は異なる。体罰は一般常識からはなるべく避けたいのは言うまでもないが、体罰=暴行と言う形で単純に判断するのは、国家の法である暴行罪が実証される場合を別にして、慎むべきではないだろうか。
補足として:1)T塚ヨットスクールのような場合は、このケースとはことなるが、やはり明確な目的を持った組織(社会)であり、そこに所属する際、一定の組織内ルールを承知した上であると思う。この場合も、特殊な組織であり、国家の法が適用される場合を除いて、一般社会の常識で体罰を評価すべきではないだろう。2)このような問題が出ると、必ず大衆迎合して自分の利益を得ようとする人が現れる。原発問題が議論されたときも、原発廃絶を日本国の経済などおかまい無しでマスコミで叫び且つ本を出版して金儲けに励んだ様に見える元専門家が何人も現れた。
我々が所属する、もっとも大きな且つ明確な組織として、国家がある。国家にはルールがあり、国家の繁栄に尽くしたと評価された場合に褒賞が、犯罪を犯した者へは刑罰が、そのルール(法)に従って与えられる。当然のことであるがこの個人への褒賞や刑罰は、一般には国境を超えて成立しない。その次に大きな組織として会社が頭に浮かぶ。この中では、類似の関係として勤務成績の善し悪しと褒賞及び刑罰と類似したものとしての昇減給及び昇進解雇がある。個々のケースでの当否軽重に対する異議があっても、これらの関係そのものに異議を申し出る人は皆無だと思う。
ここで注目したいのは、この二つの組織に同時に所属している人が行ったある行為において、その評価の正負軽重が異なる場合が多いということである。極端な例として、マイナスイオンによる空気清浄効果などは科学的根拠がなく詐欺同然だといえるが、その装置の開発販売は会社に大きな利益をもたらせ、従って開発者は高く評価されたと思われる。(マイナスイオンについてはWikipedia参照)つまり、ある組織内でのその成績によって定まる評価が必ずしも組織の外の評価と一致しないということである。もちろん、国家の定めた法が優先するのは言うまでもない。
さて、その組織であるが、明確に意識される場合もあれば、当事者以外には殆ど組織と意識されない場合がある。今回自殺者を出した、高校の運動部は、一般的には殆ど組織とは意識されない場合であり、従ってそこでの罰の当否はそれを包含する一般社会の常識に照らし合わせて考察及び報道されている。この常識はルールというより、日本の文化における慣習のようなものである。ここで、私がかなり疑問に思うのは、今回の高校運動部の実態を一般的な学校のクラブ活動の様に捉えて良いのだろうか; そして、このような専門的で既に高度なレベルに達している高校運動部は、目的を持った明確な組織であり、その組織の慣習としてビンタ程度は許容するものがあるのではないかという点である。つまり、相撲界のような組織ではないのか?という疑問である。そのような組織であれば、一般社会の常識と感覚をそのまま用いて、今回のコーチの指導を評価することが出来ないのではないだろうか。また、そこに所属するときに、そのような組織の慣習を承知した上で選択した可能性はないのだろうか。もしそうなら、その組織から離れる自由があるのだから、その可能性があることを教え、選択を考えるように指導すべきではなかったのか?
一流のレベルになるには、何においても非常に厳しい訓練や努力を要する。そして、一流になった喜こびの裏に、数倍の苦悩と挫折とがあるのが普通である。そのような世界の慣習を、一般社会の常識でもって裁くことは、次の世代の一流のレベルの国際社会に比較しての低下をもたらし、この国の活力を削ぐことになるのではないかと危惧する。つまり、この国の高いレベルの技術、科学、スポーツ何れにしても、一般社会の常識から遠くはなれたところでの努力の結果であると思う。もちろん分野により組織によりその常識や賞罰は異なる。体罰は一般常識からはなるべく避けたいのは言うまでもないが、体罰=暴行と言う形で単純に判断するのは、国家の法である暴行罪が実証される場合を別にして、慎むべきではないだろうか。
補足として:1)T塚ヨットスクールのような場合は、このケースとはことなるが、やはり明確な目的を持った組織(社会)であり、そこに所属する際、一定の組織内ルールを承知した上であると思う。この場合も、特殊な組織であり、国家の法が適用される場合を除いて、一般社会の常識で体罰を評価すべきではないだろう。2)このような問題が出ると、必ず大衆迎合して自分の利益を得ようとする人が現れる。原発問題が議論されたときも、原発廃絶を日本国の経済などおかまい無しでマスコミで叫び且つ本を出版して金儲けに励んだ様に見える元専門家が何人も現れた。