今朝もテレビで深々と長時間頭を下げる県警幹部の姿があった。日本で頻繁に見られるこのような光景の背景として、日本の人の大多数が「個人の独立」という視点を、ことばでは理解しているものの、実際には殆ど持っていないことがあると思う。また、「人の良い付き合いやすい人だった」という、その犯人の警部補に関する近所の方の人物評も、良く聞く言葉である。この後者の不思議についてはまた機会があれば言及したいが、ここでは前者の”不思議”、つまり本来責任のない筈の県警幹部の謝罪、についてすこし考えてみる。

この不思議の設定自体を聞いただけで、「県警幹部には管理責任があるのだから、当然である」との反論が聞こえてくる。つまり、この反論が「個人の独立」の視点が欠如している証拠であると言いたいのである。事件は、金払いの良い元富山県警の警部補が、借金をした元近所の住人とトラブルになり、殺人と放火にまで至ったというものである。この私的なトラブルとそれをきっかけとした犯罪の責任が、県警幹部にあるとは思えない。また、責任の無い件で、テレビカメラの前で深々と頭を45秒間、さも苦しげにそして悲しげに下げる必要などある筈がない。その県警幹部は会見後家に帰って家族に、「俺は会ったことも無い末端の部下ではあるが、何故、組織の幹部としてその気配に気付き、あの事件を防ぐことができなかったのだろう」と言って悲しむのなら、稀に高い能力と感性を持っている県警幹部ということになるのだが、おそらくテレビ会見の後家に帰って、或は、近くの幹部に、「なんで俺が、あんな姿をテレビの前でしなければいけないんだ」と言って怒るのだろう。いったいこの茶番を何故、この国は繰り返すのか?

 県警幹部は、この様な無様な姿をテレビカメラの前で晒すことにより、自分の地位が保証されることを熟知しているのである。それをしなかった場合、テレビのコメンテーターによる県警組織への攻撃とそれを見た国民の間に醸成される警察不信の空気により、国民の攻撃が日本の警察全体へ及ぶ危険性を予想しているのである。その結果、その後の天下りにまで影響が及ぶので、必死にこらえてあの茶番を演じるのである。つまり、キャリア官僚(国家公務員一種合格で採用された官僚)にとっては、国の官僚組織の防衛が何よりも優先する規範なのである。

 霞ヶ関官僚組織が一番気にするのは、本来人事権を持つ筈の政治家ではなく、その政治家を選挙で選ぶ国民の声である。政治家は官僚組織の敵ではないことは今や霞ヶ関だけではなく、国民の常識である。(唯一、恐怖を感じさせるのが、国民の声と直結している関西の維新の会である。)従って、このキャリア官僚である県警本部長の態度は、国民の姿を映す鏡なのである。つまり、日本国民の声、換言すれば、日本国の空気をまるで物の怪を恐れるがごとくとった態度が、あのテレビカメラの前での深々と頭を数十秒間垂れるシーンなのである。

 本当にそれで、一件落着なのだろうか? 本来、国家運営の中心で働き、論理的思考力を十分持ち、国民の意見をリードしていくべき、たぶん優秀な人材が、物の怪に恐れるような姿を国民の前に晒すことが正常な姿である筈がない。この事件は私的なものであり、この犯人の勤務先とは無関係である。少なくとも、無関係として取り扱うのが、“公私を峻別すること”で、このグローバルに広がった複雑且つ高度文明社会での国家運営を、能力の限られた人間(キャリア官僚といっても)でも可能にする、近代法治国家の本来のあり方である。そして、この公私の峻別が出来ていない、法治国家としても十分に機能していないのが、我々の国、日本国の姿である。
 最後に一言:あの人の良い警部補があのような犯罪に至ったのは、被害者だけでなく、あの警部補とその家族にとっても不幸な出来事であったと思う。ただ、国家の運営を正常に行う為には、裁判で死刑になるかもしれないし、そうなるべき事件である。この“罪を憎んで人を憎まず”という、人と犯罪と処罰の関係も、一般には十分理解されていないように思う。