日本国は今、株で言えば暴落の直前にある。政治は混乱を極め、80歳の老人と40歳前半の若い大阪市長に日本改革の意思を見るのみで、40代後半から70歳前までの本来中心になるべき世代には、正義も熱意も知恵もエネルギーもない。民主党の幹事長や最高顧問は、ただ与党の椅子に居座りたいだけで、支離滅裂なことを言っている。あのような老化衰退した者を未だに国会の重要な位置におくこの国政界の無気力さ、それを正面から批判しないマスコミなど、日本の没落までの日が数える程しかないことを示している。株価は、日本の会社に魅力を感じない投資家の後ろ姿を映している。(日経新聞14日)なぜ、一時期は日の出の勢いだった国が、停滞の20年を経て、暴落の危機にあるのか?全てはこの国の文化、社会を構成する原理に原因があるように思う。それは、個性を殺し、競争を避け、批判を避け、議論を避け、“人と人との間の和”に最大の価値を置く、日本の文化である。HPで指摘したように、日本文化の基礎にある日本語そのものが、事実や論理よりも、話し手とその相手の関係を細かく表現するように設計されている。自分とその周りの人々との関係を最重要とすることは、自分の周囲に瞬間的には居心地良い空間をつくる。しかし、巨大化した組織の運営を、全世界を視野に入れて行わねばならない現在、トップとその周辺が、日本固有の“和の文化=コネ文化”に支配されていては、この国を立て直すことは不可能である。
この重要な局面において、特に大切なことは、事実とそれらをつなぐ論理に第一の価値を置くこと、“瞬間的な人と人の和”を否定することである。例えば、人を選ぶときには、実績とそれに裏打された能力を第一の基準とすべきである。また、選ばれたトップは、未知の空間をその組織が目指すときには、出来るだけ大勢の有能なる人との議論やHead Quarter における討論をへて、最後は自分の直感を加えてその方向を判断すべきである。現在の日本は、このような姿からほど遠い。それほど有能でない者も、その組織に太いパイプを持つ人の子供であれば、その組織の首脳として採用されている。従って、そのようなコネの圧力をはね除ける機能を“新しい日本の文化”として持たなければならない。その為の必須の要件は、日本国民の全てが、個人として自立を目指すことである。(小沢一郎氏の本はこの点を指摘しており、一読に値すると思う。また、実際、新しい分野の成長企業では、そのような事が当たり前になっていると思う。)
人間は協力して社会を形成しているのであり、1人では生きられない。従って、人と人との関係は非常に大切である。しかし、文明の発展(一応、発展と呼ぶ)により、巨大な組織を作って人が生きる社会になった今、“隣人どうしの和”よりも“目に見えない多くの人との和=事実と論理”を第一としなければならない。何故なら、少数の人による判断ではどうしても恣意的になり、組織全体が危うくなるからである。その組織を構成する人の総意を、事実と論理に基づいた議論&討論により形成し、決めなければならない。この総意を形成する手順が、日本国の発展への道を発見する方法でもあると思う。
西欧社会では、個人が神との関係を優先し、結果的に”隣人”から自立している度合いが大きい。(ただ、神の書が真理を告げている限り良いが、我々日本人からすれば、必ずしもそうでもない様に見える。従って、異なった面で西欧社会も問題を抱えている。)政治における西欧型民主主義は、この個の自律した文化を基礎に機能しているのである。また、科学とそれを基礎にした技術の発展も、真理の存在を信じて、それを事実と論理とにより探す作業の結果として実現したのである。この西欧型文化の世界で生きるのであるから、どこかで日本の「和の文化」を超越する必要がある。現在がその時であると思う。それは決して否定ではなく、「人と人との間の和」を、この「“自立”を意識した人の間の和」に発展させるのである。そのようになれば、都会の団地での隣人同士の付き合いも、より清々しいものになると思う。
貧しい中で生きた日本の田舎には、日本の“和の文化”の自然な形が根付いていた。実は今の都会では、日本の和の文化が生き生きとして残っているのではなく、西欧文化が調和しない形で入り込み、崩壊の危機にあるのである。
この重要な局面において、特に大切なことは、事実とそれらをつなぐ論理に第一の価値を置くこと、“瞬間的な人と人の和”を否定することである。例えば、人を選ぶときには、実績とそれに裏打された能力を第一の基準とすべきである。また、選ばれたトップは、未知の空間をその組織が目指すときには、出来るだけ大勢の有能なる人との議論やHead Quarter における討論をへて、最後は自分の直感を加えてその方向を判断すべきである。現在の日本は、このような姿からほど遠い。それほど有能でない者も、その組織に太いパイプを持つ人の子供であれば、その組織の首脳として採用されている。従って、そのようなコネの圧力をはね除ける機能を“新しい日本の文化”として持たなければならない。その為の必須の要件は、日本国民の全てが、個人として自立を目指すことである。(小沢一郎氏の本はこの点を指摘しており、一読に値すると思う。また、実際、新しい分野の成長企業では、そのような事が当たり前になっていると思う。)
人間は協力して社会を形成しているのであり、1人では生きられない。従って、人と人との関係は非常に大切である。しかし、文明の発展(一応、発展と呼ぶ)により、巨大な組織を作って人が生きる社会になった今、“隣人どうしの和”よりも“目に見えない多くの人との和=事実と論理”を第一としなければならない。何故なら、少数の人による判断ではどうしても恣意的になり、組織全体が危うくなるからである。その組織を構成する人の総意を、事実と論理に基づいた議論&討論により形成し、決めなければならない。この総意を形成する手順が、日本国の発展への道を発見する方法でもあると思う。
西欧社会では、個人が神との関係を優先し、結果的に”隣人”から自立している度合いが大きい。(ただ、神の書が真理を告げている限り良いが、我々日本人からすれば、必ずしもそうでもない様に見える。従って、異なった面で西欧社会も問題を抱えている。)政治における西欧型民主主義は、この個の自律した文化を基礎に機能しているのである。また、科学とそれを基礎にした技術の発展も、真理の存在を信じて、それを事実と論理とにより探す作業の結果として実現したのである。この西欧型文化の世界で生きるのであるから、どこかで日本の「和の文化」を超越する必要がある。現在がその時であると思う。それは決して否定ではなく、「人と人との間の和」を、この「“自立”を意識した人の間の和」に発展させるのである。そのようになれば、都会の団地での隣人同士の付き合いも、より清々しいものになると思う。
貧しい中で生きた日本の田舎には、日本の“和の文化”の自然な形が根付いていた。実は今の都会では、日本の和の文化が生き生きとして残っているのではなく、西欧文化が調和しない形で入り込み、崩壊の危機にあるのである。