非日常性 | 昭和初期衝動

昭和初期衝動

The reader should not be misled by the somewhat peremptory air which the effort at axiomization may give to my argument.

古谷実のマンガ『シガテラ』


題名の意味は分からないけど、このマンガに書かれているのは、


日常に潜む非日常である。



ヤクザに殺されそうになったり、友達が人を殺そうとしたり、彼女が犯されそうになったり、、、と、


主人公は、いじめられっこで、なぜかかわいい彼女ができて、幸せそうな生活を送る高校生。



マンガだから、そういう事件に巻き込まれるといえばそれまでだけれども、


そんな事件は、僕達の普段の生活にも、もしかしたらありえたかもしれないことでもある。



ところで、非日常性といえば、ハレとケ、祭り、とか「聖なるもの」として言われてきた。


日常のストレスを発散するために、自らそこに飛び込む。儀礼や儀式を行う。


昔の祭りも今の祭りも、その部分は残っているだろう。



しかし、『シガテラ』での非日常性は、突然やってくるのである。


主人公は、関わってきた周りの人に、その「突然」に対して、


「不幸の源」と呼ばれるのである、



それは、偶然おこったことではなくて、主人公に「原因」があるとするのである。


「原因」を明らかにすることによって、主人公を不幸の源とすることによって、


「結果」を自分のせいではないと周りの人はするのである。


そして、主人公も「自分を不幸の源」と自分を罵るのである。



先日の話での、


客観的な「原因」と「結果」に対して、「とある装置」を使用することによって、


主観をマイナスからプラスに変更すること。


それとは異なる。



「原因」を明らかにすることによって、


たとえそれが本当の原因ではなく、

それを「原因」と認める主観的なものであれ、


「原因」が明らかになることにより、少しは満足するのである。




人はいつか死ぬ。


死という「結果」に対して、仏教は、生まれたことに「原因」があると説く。


しかし、突然、交通事故で死ぬということも、病気にかかって死ぬこともある。


死という「結果」に対して、「原因」を明らかにすることには、どれだけ意味があるだろうか。




人はいつか死ぬ。


主人公は、「自分は一人で生きていく」との覚悟を決め、


その覚悟を、ずっと心の奥にしまっておく事にする。



最終的に、主人公は、大人になって、強くなった。


頑張って、望んで、そうなった。


「不幸の源」と自分を「原因」にして罵るのではなく、


主観的に、自分の意志で、自分を変えたのである。