明智憲三郎様
「是非に及ばず」は信長公最後の言葉として知られる。しかし、もう一つ有名な最後の言葉もあると、明智光秀公御子孫から初めて伺った。信長公の小姓として最後までよく尽くした弥助が伝えたとされる。「自ら招いた結果だ」と言ったという。実は、本能寺には、信長が家康公を討つ為の布石が敷いてあったと、明智様は言われる。それが逆に自分が討たれた形になったのが、冒頭の言葉につながる。初めてお伺いした説は、実に説得力があった。光秀と家康は利害が一致したのだろう。その後、家康公が太平の世を作り、権現様として東照宮に祀られた。ここで最初に眼に飛び込んでくるのが、「三猿」の彫刻。これは、太閤の隠喩だという。「惟任退治記」という秀よしが編纂させた本能寺の顛末書がある。この記録こそ、光秀怨念説、天下取りの野望説、信長公の最後における横暴な振る舞いの元ネタを提供した記録であるとのお話は興味深い。明治期、国家のヒーローとして太閤は祭り上げられた。時代は中国進出とも重なっているので、それは国策であった。また大河ドラマも大いに先ほどの説(光秀悪玉説)を助長した。今、御子孫より、新事実が明るみになりつつある。