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※ 登場人物の名前は偽名です

 

音階先生はエネルギッシュで寛大な先生です。誰よりも学習者思いで、みんなと楽しくするのが好きな人です。みんなでの食事が大好きで、一緒にご飯を食べると必ずおごるような人です。損得勘定では動かず、誰よりも頑張り、犠牲をする人です。

学習者とも真剣に向き合い、責任をもって授業をする人で私は一緒にお仕事ができて嬉しかったです。今でもそう思います。

 

しかし私は音階先生とは音信不通です。話をしたくないわけではないですが、辞めてから一度連絡を取りました。私は音階先生の気持ちが読めず、結局この人も心を開いてくれていたのではないんだと思い、距離を置きました。実際、私も住んでいた学校が位置する田舎を出て、今は都会で暮らしているので、会う機会もないのですが。

 

音階先生とはまるでコンビのように活動していました。同じく犠牲をする性分同士、阿吽の呼吸で仕事をすることができていました。行事などでもそうでした。私が総監督をする分、家での仕事が多く、各行事成功するように企画・計画をする必要がありました。何時間も費やして、音階先生と相談しながら内容を改善し準備をしました。行事では数少ない教師で、いろいろと準備する必要がありました。しかし、浅子先生も霜田先生も積極的ではなく、どちらかというと私たち二人の努力に乗っかって楽な部分だけ作業をしようとする。そんな人たちでした。教員の姿勢ではないだろうとずっと思っていましたが、動きたくない人を動かすわけにはいかないので、その二人の分を私が被り、音階先生の助けもあり二人でこなしていきました。この二人は行事の分のお給料はいただいていない、ボランティアでいる以上余計なことはしたくないと言われました。私はものすごく腹が経ちました。確かに当時の私の給料は他の先生方より上でした。しかし、この先生方がは恐ろしい勘違いをしていたのでした。授業のコマ数も私のほうが上、要するに彼女たちより多くのクラスを受け持ち授業していました。単純計算で授業の準備も彼女たちより上でした。そして私は教頭としての手当をもらっていました。しかしそれは、書類整理、教材の準備、カリキュラムの見直し、年間計画、保護者とのやり取り、行事の企画及びマネージメントなどの分で十分と言える給料ではなく、どちらかというと気持ち程度のものでした。もちろん、私の給料にも行事の計画や実行は含まれていませんでした。私もボランティアでした。でも、誰かがやらなければならない。そんな基本的なこともわからないアラフォー・アラフィフ教師を目の前に、一回り年が離れていた私は呆れていました。どこまで自分勝手なんだろうと。残念ながら今でもこの先生たちを思うといい気分にはなれません。

 

私もアラフォーになり、余計なんであの時ああいう態度だったのか、余計不思議に思うようになりました。(アラフォーにすがる私。どうしてこんなにも時の流れは速いのか)

 

音階先生がいなければ、私はもっと早くつぶれていたことでしょう。二人で何度も食事したり、話したり、研修に行ったりするなかで、私も心を開きましたし、音階先生も心を開いてくれていたのだと思っていました。私の仕事のし方も理解してくれていたのだと思っていました。

 

音階先生は非常に気難しい方でもありました。学習者が間違えるとホワイトボードに使う水生マジックを投げつけたり、ひどいことを言ったり、まるでドラマに出てくるかのような、そんなトンチンカンなキャラでした。学習者から文句を言われたこともありますし、その度注意はしました。でも、根深学校には必要な人でしたし、私も悪さは庇わなかったものの、音階先生を大切にしようと彼女が知らないところで間に入って、いろんなことを穏便に済ませようとしました。音階先生は謝らない人だったので、代わりに私が保護者や学習者に頭を下げたりしました。このことについては誰にも言っていないので、音階先生も知りません。ちゃんと授業をするときもあれば、めちゃくちゃな授業をするときもあり、正直手に負えないこともありました。私は解雇をするつもりはなかったですが、何よりも権限がなかったので、できるだけ楽しく学習者が学べるように、できるだけ教員が楽しく教えられるように努めました。

 

教師会議では音階先生はほとんど発言することがありませんでした。意見を求めたら話すもののどこか他人事でもありました。浅子先生や霜田先生は論外です。発言の責任を持たずに言いたいことだけ言い、その案が実現できない理由や疑問点、あるいは他の観点からの案を逆にぶつけると全否定されたみたいな形で口ごもる。実際、私が教頭を辞めると決意したことを報告する会議では、私が発言を認めてくれなかった、ずっと否定してたと言われました。アラフィフのいいおばさんが、一応は教師をしている人間が、こんなにも間抜けなことを言うのかと、こんなにも人の話を聞かずに被害妄想して身勝手に動いていたんだと気づき、逆にここまでみんなのことを思い頑張ってきた自分があほらしくなりました。

 

私がもう限界だと思い、辞めようと思ったきっかけはつけらさん、教員以外にもいました。彼ら一人一人が私を追い込んだのではなく、この身勝手集団が原因だったと私は思っています。

 

次回、その人物をご紹介します。

これから話は動き、人物紹介を経て、最終会議に移ります。

その最終会議の次には私が絶えた1年間について綴ります。

 

ターコイズ色の宝が得られたからいいものの、一生顔も見たくない人たちの一生経験したくない話は今後も続きます。

 

私の出会いをもとに、一緒にパワハラについて考えていけたら嬉しいです。そして、一緒に考えることによって各自の考えがまとまり、自分に必要な決断をしていただきたいです。私の話は全てじゃないですし、私の考えも私の考えだけです。決断も何かを断ち切ることだけではなく、どう進んでいくか、どう現状維持をするのかも決断だと私は思います。

 

気楽に、紅茶片手にまたお会いしましょう。

 

 

 

 

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※ 登場人物の名前は偽名です

 

初めてつけらさんに怒鳴られたとき、会議中でした。今まで、人前で相手を叱ったり、怒鳴ったりするのは普通のことだとされていましたが、幸いにもそれがパワハラ・モラハラだと認められる時代がやってきました。古い考えの方は「今時の奴らは弱い」とか言うんでしょうね。しかしこれは最近できた概念ではなく、昔からあるもので、日本が傾向として追い付いていなかっただけだったのです。もちろん欧米でも発生していた問題です。だからこそ国連もこの問題を取り上げた訳です。心理学の研究を真剣に受け止め、快適かつ人権を尊重した職場環境を生み出す努力がされています。

 

つけらさんは、委員会の責任者を副業としてやっていました。本業はただの会社員で、命令に従う立場でした。初めて責任者として務めることになり、狭い世界では王様気分だったのでしょう。会議などで私が主張することに言葉で勝てないと判断したとき、怒鳴ることで場を落ち着けようとしていました。人の悪口は言いたくないですが、これは後に分析した結果で考えたことです。気に入らない人もいるかと存じますが、ここは私の観点で自由に書かせていただきます。

 

人前で怒鳴られるって経験した人はわかると思いますが、傷つくだけでなく、ものすごく侮辱的なことです。その悔しさは今でも忘れられません。当時は私も若く、黙って耐えるべきだという謎の概念があったので、言い返しもせず、ただ涙を流して耐えました。何年も過ぎ、いろいろな意味で成長した今の私は、言い返せばよかったのにと思ってしまいます。でも当時はその力もなければ、勇気もなく、ツールを持たない人間に無理強いすることになると自分に言い聞かせ、当時の自分を受け入れるようにしています。言い返すことが必ずしも正解ではないです。ただ、2度とこれは絶えない。怒鳴られる環境には絶対にもう残らないと私を決断させる経験となりました。

 

3回ひどく怒鳴られ、ごみ扱いをされたことは覚えてるのに、内容は思い出せません。(そのほかにもパワハラやモラハラはありましたが、ここではあえて怒鳴りだけ語ります) 私はこの学校での経験がトラウマとなった部分があり、この記憶に蓋をしたのでしょう。今でも思い出せません。また、思い出したくもありません。

 

理不尽に怒鳴られ、私がしてきたことは一切考えてもらえず、尊重もしてくれない悔しい気持ち、ほかにもご理解いただける方もいらっしゃると思います。しかも、怒鳴った自分が悪かったと思い、その埋め合わせをするかのように、車で駅まで送るとか、「会議」と称したくだらない話し合いをするために昼食・夕食をおごられたりしました。私は嫌いな人におごられるのは嫌で割り勘を希望していましたが、私の主張は通らず、鼻高々おごってました。まるでそれで怒鳴った事実が帳消しにされると思っているかのように。断れない私は送迎に甘えたりしましたが、当時は気持ち悪くて仕方がありませんでした。「だったら乗るなよ」と思いますよね。私も思いました。でも、くだらない夕食会で帰りのバスの時間が過ぎ、一人で夜遅く治安の悪い場所で次のバスを1時間待つか、送ってもらうかを考えたとき、しつこく言ってくる人に嫌だと断ったらどうなるかわからないという不安を感じたとき、どうしても断ることができませんでした。これもセクハラになるんですよね。相手にその気がなかったとしても。

 

こんなことが2年続きました。私の心はどんどんすり減っていきました。

 

でも当時はつけらさんのパワハラ以外にも困ることがありました。

それは教師の方々の態度でした。

次回はそのお話しをさせてください。

 

全ての観点から私が感じていたことを皆さんに紹介したうえで、どのように片付いたのかをお話しをするとともに、私の得たターコイズ色の宝についてお伝えします。

 

今回は心にモヤモヤが残ってしまいました。

ちょっと甘いもの食べてきます。(笑)

 

次回もまた紅茶片手にお会いしましょう。

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※登場人物の名前は偽名です。

 

これからお話しする外国語学校(仮名:根深学校)は地方の田舎に位置する学校です。その学校を私は一度、辞職していました。理由は学校に通う外国の人たちへの差別でした。教師以外の学校関係者(委員会など)の差別はひどいものでした。もともと、外国語を学びたい、日本語をもっと喋れるようになりたい、そんな思いを抱えた日本人または外国人が通う場所なのに、何をこんなにも他国の人たちを犯罪者かのように扱うのか。私には全く理解できませんでした。

 

辞職から1年経ち、私は再度学校側から連絡をもらいました。

委員会の人たちが総入れ替えして、新しいビジョンとミッションを持つことになったから、戻ってきてくれないかという誘いでした。

半信半疑だった私はとりあえず新しい責任者とその補佐に会うことにしました。

 

初めてお二人とお話しし、つけらさんも本気で今までの差別を無くし、いい学校にできるように徹底的に努力をする気持ちであることが伝わってきました。彼らが委員会の責任者とその補佐になり、私が学校の責任者として務め、教育方針や教材、教師のまとめ役に徹することになり、新たなスタートを切りました。

 

当時はすごく楽しく、新しい教師を採用したり、カリキュラムを作成したりしました。教師の皆さんと一団になって学校のレベルを上げることを目標にしていたため、国外の教師研修など、各教師のニーズと特徴に合わせて参加するように説得したりしました。結果、みんなで努力して新学期を迎えることができました。

 

当時の教師は私に加え、音階先生、浅子先生、霜田先生がいました。1年目と2年目はとにかく仲良く仕事をすることができていました。

私は何よりも先生たちが気持ちよく仕事をしてくれればという一心でいろいろと頑張りました。

この方々が到底想像できないような努力をしました。

 

学校に到着するのは、どの先生よりも1時間半か2時間前で事務所の整理整頓、教材の整理、学校行事の計画、資料のまとめなどを毎回していました。古い学校でしたが、私の前にいた責任者、暗実先生はお世辞にも整理整頓が得意とは言えない方で、30年分の書類がぐちゃぐちゃでした。特に、他国の政府組織と関わる行事もあったため、書類の整理は欠かせないものでした。その行事のファイルもありましたが、過去15年全部めちゃくちゃでした。年度ごとに分かれていなかったり、2、3年度前の書類が今年度となぜか混ざってたり、あるいは全然違うファイルに保管してあったりととにかく地獄絵図でした。

 

書類整理しなければならないファイルは合計20以上あり、何年も前の書類であるほかに、当時の方が誰一人いなかったため、整理に時間がかかりました。学校ではファイル整理ができなかったため、自宅に持ち帰り、土日休みなしで整理しました。それこそ何週間もかかりました。整理が終わったら、今後の活動でどういう風にしたらいいのかマニュアルを作成する必要がありました。今の流れと改善するべきところを慎重に考え、マニュアルを作成する。ここでこれだけ記してもあまり大変そうには見えないかもしれませんが、当時はいろいろな犠牲をして、頑張りました。誰に口外するでもなく、一人で黙々と。この事実がこの話にどう関係しているかと思われる方もいらっしゃると思います。これは私が辞めることを決意したときに気づいた事実で、今後の話に関わるのでお伝えします。

 

次回は全てのつまずきの始まりから、ご紹介します。

つけらさんが私に最初に怒鳴った話です。家では嫁の尻に敷かれているくせに威張りやがってと思いながら耐えたパワハラ・モラハラについてお話しします。

 

今まさにこのような状況に耐えている皆様にとって少しでも参考になればと思います。

次回、紅茶片手にまたお会いしましょう。