奇跡講座 テキスト編/中央アート出版社

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 「兄弟を認識するための道は、彼の中に聖霊を認識することである。」(第5章、第三節、段落1)



 誰であれ、その人のことを本当に知るためには、その人の中に聖霊を認識しないといけないと書かれています。

 「聖霊を認識する」というのは、

 その人の中に、自分と全く同じものを見る。
 その人と自分が、確かに同じ存在だと確信する。
 その人が持っているもので私が持っていないものはないし、私が持っているものでその人が持っていないものもないということがわかる。
 その人と私の関係は、永遠に変わらないんだということを実感する。

 などというふうに感じられます。
 まだまだいっぱい、表現の仕方はありますね。



 では、それを見ていないとき、つまりその人の中に聖霊を見ていないときはどうなっているかというと、「その人を認識することに失敗している」「その人のことが全く見えていない」ということになるのですから、その状態で私が思っている「彼/彼女」は、私の頭の中だけに存在する「架空の人物」です。


 その方の身体や態度、言動、声、雰囲気、視線などなどのパーツを借りて、勝手に頭の中で福笑いのように組み合わせて作り上げた、架空の人物です。


 ほんとはどこにも存在していません。


 誰かとの間に愛以外のものを見るとき、私たちはこの架空の人物を相手に、一人で勝手にドラマを作り上げています。

 架空の人物が私を脅かすというドラマを見ます。

 だって、架空の人物を作り上げた目的自体が「自分を脅かすため」なんですから。

 だから架空の人物と愛の物語を見る事は決してありません。

 だって愛を経験するためだったら、架空の人物をわざわざ作る必要はなく、もとのままの、本来のその人で良いんですものね!

 
 
 
 ドラマがどんなぐちゃぐちゃになっちゃっても大丈夫。

 相手は架空の人物ですから、ドラマも架空、フィクションです。
 作家は私です。
 私が頭の中で作り出し続けるのを止めれば、ドラマは直ちにストップします。

 ドラマの中で起こった事はすべて、消え去ります。




 そして本当のその人は「やっと私に目を向けてくれるのですね。待ってましたよ。あなたと一緒に、幸せになりたかったのですよ。」と、私をあたたかく迎えてくれます。