思考だけ快速乗車
傷ついた靴の爪先を見て、引けなかった。「いない」と言っていた人間が居る。 人ひとり分しかない、狭く短い通路が急かすように唯一の部屋へ誘う。右手のシンクの蛇口から水が秒を刻むよう滴っていた。早く行け、早く行けと血液が体内で発火しそうな勢いで駆け巡る。煩い蛇口を力を込めて閉めたのに体は落ち着いてくれない。 磨りガラスの向こうに感じるのは捕食を免れようと息を殺して潜むのは、おそらく二人。謙は息を殺すこともせず乗り込んだ。 銀の取っ手を下げ、扉を引いた。見回した部屋には彼女と思しき人と、同じ課の、件の靴を謙に自慢してきた友人だった。「忘れ物、取りに来たんだけど」細心の注意を払って言葉尻が震えないよう、淡々と伝える。「どこにあるかな」 三日前に「夕飯食べにきてよ」と言われ、渋々尋ねたときにはテーブルに置いていたはずだ。ご飯中に仕事の物を乗せないで! とヒステリック気味に怒っていたから、その記憶は確かだ。だが、とにかくまずは換気だ。鍵を滑らせ、部屋唯一の窓を開く。日が落ちて少し経っているのに、蝉は昼間と変わらない強さで叫んでいた。沈黙はなかなか破られない。早く出て行きたい。いや、この二人の吐く言い訳を払い除け、消沈する姿を見たい。二つの卑しい気持ちが混ざり合ってなかなか言葉にならない。「謙、ごめん」 謙が黙っていると男が怯えた声色で言った。「うん、大丈夫だよ。で、書類どこかわかるか」 壁に沿って置かれたベッドに呆然と佇む男、明人(あきと)が苦虫を潰した顔つきでこちらを見つめていた。 早々に視線を外した謙はお目当ての書類を求めて部屋を探し回る。「居ないって言ったのに」 憮然とした物言いに振り向く。彼女は明人に寄り添っていながら顔を真っ赤にしていた。「ごめん。急ぎで必要な書類なんだ。今から役所に戻って仕上げないといけない」「謙、俺が」謙は明人が言い終わらない内に口を挟む。「だからさ。書類どこだって言ってんの。それ以外聞いてないから」 明人も彼女も喉を締め上げたように口を噤んだ。狭い部屋を歩き回っても見つからない。引き出しを開けてみたり、本棚の書類やら本やらを崩してみてもない。「なんなのよ! テレビのとこにあるでしょ!」 首を捻り、ベッドの反対側に設置されたテレビへ視線を移す。白いテレビ台の上に、クリアファイルに入った書類が堂々と乗っていた。「ああ。どうも。じゃあ」 ベッドの方に視線を戻す気など起こるわけもない。謙は激しい虚脱感に襲われながら、表面上は努めて冷静に聞こえるように。「違うんだよ謙。違うんだ」 何をそんなに狼狽えているのか。謙にはわからない。余りの狼狽ぶりに一瞬顔を覗いてしまった。明人の泣きそうな表情がとてもじゃないけど見れたものじゃなく、おかしさに声を上げて笑ってしまった。「謙、なあ謙。お前のこと好きなんだよ」 震える声を無視して部屋を出た。三和土に放られた靴をがむしゃらに履いた。 出て行くとき、踵で明人の革靴を踏みつぶしてしまった感触が未だ足を這っている。