第二章 警察官に向いていない人間

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・向いていないは悪
あなたは自分が警察官に向いていると思いますか? この問いに対して自身を持ってYESと回答出来る方は少ないのではないでしょうか。それもそのはず、事柄の向き不向きは自己ではなく相手が下した評価によって始めて分かるものだからです。しかし、これまでに論じている通りある程度の予想は可能です。予想し改善若しくはライフプランを見直すことで、社会そして自分の幸福向上にも繋がるはずです。ですが、中には明らかに警察官に向いていないような人間が警察官を目指している光景を幾度となく私は見てきました。そんな彼らは共通して人の話を聞けません。自分が「なりたいから」「やりたいから」が全てなのです。さらに、達の悪いことに自分が「なりたい」や「やりたい」の延長線上にある警察官の職務としての「人助け」を絶対的な正義だと信じ込んでいるのです。「自分には人を助けたいという強い思いがあってこの気持ちは絶対の正義だろう」と、思い込んでいます。そのため、他者の指摘や忠告を受け止め自身の成長の糧として吸収することができないのです。
一見すると、この「人助けの精神」は正しい事かと感じますが、実はそこに第三者はいません(無論人助けは良い行いですが…)。ここでいう第三者とは助けるべく市民ではなく、他の学生(人材)を指します。
例えば、Aという工場がa商品を1時間で10個生産出来るとします。反対にB工場では全く同じa商品を1時間で100個生産出来ます。どちらの工場に頼んでも値段は同じでした(有り得ないが…)。
工場の例えで、皆様はどちらの工場に商品を受注しますか? もちろんB工場を選びますよね。警察官という職業もこの例えと同じです。能力が高く向いている人間は向いていない人間に比べて社会に利益をより多くもたらします。ですので「あなた」と「助ける対象(市民)」の二択ではなく、他の「第三者」を視野に入れることが重要です。そして、第三者を視野に入れて自身と比較することで力量を正しく把握でき、改善や能力の向上に繋げられるのです。
幾度と述べいるように警察官は誰でも条件を満たせばなれます。そのため警察官に向いていない「あなた」が受かることで、警察官に向いている別の「誰か」が落ちることになります。あくまで確率論の話です。向いていない「あなた」が落ちたからといってあなた以上のステータスを持つ受験生が変わりに受かるとは限りません。しかし、向いていない「あなた」が警察官を諦めることで、あなた以上に警察官に向いている「誰か」が受かる可能性が1%でも生まれるのならばそれは素晴らしいことです。
警察は国営機関、すなわち公務員です。そして公務員は国民の奉仕者です。奉仕者は前提として「人のために」尽くさなければなりません。先程述べたように向いていない「あなた」が警察官になることで弊害は必ず発生します。「人のため」と「なりたい気持ち」は決して両立しません。そして両者は天秤に測られています。向いていないのに「なりたい気持ち」を押し通すことは公務員の前提条件である「人のため」を軽視することになります。これはすなわち「人のため」に警察官になるつもりが気が付いたら「自分のため」に重きがシフトしてしまっているのです。
それでも、主観的な彼らはそれにすら気づかないでしょう。夢が叶えば本人達にとってはそれで良いのかもしれませんが……。ですが、自分が快適に仕事に取り組み社会で害とならないためにはやはり[第一章 警察官に必要な能力 ・自身の性格を理解する]で述べたような自己分析が欠かせないと言えるでしょう。
他のブログや参考書では綺麗事のようにあなたの背中を押す言葉が無責任に溢れています。しかし「あなた」がとある役割を担うことでその存在が「害」となる可能性は十分にあることを理解し意義のある人生設計を行なってほしいと切に願います。
※[第一章 警察官に必要な能力・警察官の適性(まとめ)]の説明で「むいている」「なれる」の両方が警察組織で必要だと述べました。「なれる」は≒「むいていない」です。第二章での「むいていない」は非行がある者など常軌を逸する者を指しています。

・いじめられっ子は警察官に向いている⁈
この話題もよく物議を醸しています。
いじめられっ子は自分が虐げられた経験から「他人の気持ち」を理解できるとされています。まさにその通りです。
これらからいじめられっ子は警察官に「向いている」と言えるのです。

「?」

警察官に関する参考書や文献に書かれていることを抜粋しました。書かれていることは間違いではありません。しかし、いじめられるに至った経緯を考えると別の解釈をすることができます。
「いじめられっ子は危害が加えられたその時に何らかのアクションをすることが出来なかった」これが「いじめ」が継続して行われる原因の一つです。基本的にいじめられっ子は優しいです。私のような部類な性格の持ち主は他人を犠牲にしてでも自分の理念や考えを押し通そうとします。そのため危害が加えられた瞬間になんらかのアクションを無意識に相手に対して行うのです。ですがいじめられっ子はそれができません。ここで示す「アクション」とは同調圧力からの解放です。[第一章 警察官に必要な能力・協調性のパラドックス]でも触れましたが「いじめ」の原因は同調圧力による「黙認」が一つの理由です。しかしこの同調圧力の原理はいじめられている「本人」も例外ではありません。自分がいじめられている環境を無意識に認めて同調しているのです。
私は「いじめられっ子にも原因がある」と言っているのではありません。むしろ反対です。「いじめられてしまう」因子は、ほとんどの人間に内包されています。「いじめを黙認する同調圧力」「いじめられている環境に同調してしまう」この「加害者」と「被害者」はなにも「あなた」でなければならないわけではありません。つまり同調圧力に屈してしまう人間は例え立場が異なろうと「加害者」と「被害者」が入れ替わる可能性が十分にある、ということです。
勘違いしないで頂きたい点は同調圧力=悪では決してないことです。
これとは反対に、同調圧力や協調性に欠けた人間ばかり存在していたらどうなるでしょうか? 多分ですが…個人間で常日頃から戦争をしているでしょうね…。ですからどちらが良い悪いの話ではないのです。
まとめると「性格に良し悪しはない」と言えます。
本題に戻ります。それでは何故、警察官に「いじめられっ子」は適していないのでしょうか?
察しが良い方は既に以上の説明から理解できたかと思いますが、分からない方の為に解説していきます。
いじめられっ子は、先に述べたように「同調力」が内包されています。そのため、何らかの「役割」を与えたとしても「本質」としての性格が変わることはありません。つまり、警察官の「役割」を与えたところで、仮に過去と同じような「(悪い)同調圧力」が求められる状況に陥ったら…。自ずと答えは出ますね…。
その人が持つ本質(性格)は滅多なことでは変わりません。警察官に「むいている」性格が「良い性格」だと言っているのではなく、それぞれの個性にあった業種に就くべきだと論じているのです。これは[第一章 警察官に必要な能力・警察官の適性(まとめ)]で述べた「なれる」「むいている」の概念に近いものです。御覧になられていない方は第一章に詳しく「なれる」と「むいている」についての説明がありますので、そちらを読んでみてください。

・批判を認められない人間

タイトルにもあるように「批判を認められない人間」は警察官には適していないでしょう。それと同じく「すぐに感情的になる人間」も同様です。警察官は業務上でよく「批判」をされます。当然相手が全面的に悪いケースもありますが、批判を一回は受け止め解決に導ける能力や性格を持ち合わせていなければならないのです。また、相手とのコミュニケーションを円滑に図るためのスキルである「論理力」は[第一章 警察官に必要な能力・警察官に必要な能力]を参照ください。

サービスを提供すべく市民に対して「相手の批判を認める」が必要なことは勿論です。しかし、他にも同僚や上司からの「指摘」を受け入れることも必要となります。

「指摘」や「批判」を受け入れて「自分」の強みに変換できない人間は警察官に限らず社会で上手く生きてはいけないでしょう。

では、批判を受け入れることが出来ない人間の特徴を述べていきます。まずは主観的な人間は相手からの指摘を受け入れることが出来ません。これは説明するまでも無いですよね。次に学生時代にリーダーシップを発揮してきた人間が当てはまります。そして、彼らに共通して言えることは自己プライドが高く、過大評価をしてしまう点です。

学生時代にリーダーシップを発揮できる状況とは友人関係や部活での関係のみです。しかし、一歩社会に踏み出せば友人関係から損得関係へ、友人関係や部活動での指揮能力から、与えられた仕事の遂行能力へと変化します。例えとして、サッカーが得意で部長を務めていた者がバスケ部においてもリーダーでいられるかどうかは全くの別問題です。しかし、一度リーダーシップを発揮した経験があると他の物事においても場を仕切ろうと動いてしまうのです。このような人間は主観的であって物事を一元的にしか処理できません。能力や性格などの事象がそれぞれ別個に機能している本質を理解出来ない故に過大評価をしてしまうのです。

ここで少し心理学の話をしましょう。アメリカの心理学者ギルフォードは、既存の二因子説や多因子説※を根幹とする能力構成過程をより多元的で複雑なものだとして知能構造モデルを提唱しました。そして、現在の心理学や脳科学においても知能や能力が個々同士に因果関係があるとは認められていません。つまり、学生時代に「A事象」でリーダーシップを発揮できたからといって「B事象」でも周囲を先導出来るとは限らないのです。これには根幹となる「求められている能力」が異なることにあります。ですのでリーダーシップを学生時代に発揮してきた「あなた」は一度自己を振り返り目指している職業でも能力を正しく発揮出来るのかどうかを見極める必要があります。

次に、リーダーシップを維持する上で欠かせないスキルに「プライド」があります。何故プライドが高い人間が警察官に適していないのか?については[第二章・プライドが高い人間]を講読してください。そして、今回の題材である「批判を認められない人間」とは、どう関係するのでしょうか。

リーダーシップを発揮するためには周囲の人間の支持が必要になります。また、リーダーシップを発揮する人間の周りには必ず「YESマン」がいます。これは当たり前の事です。もしも「NO」と言える人間が存在するのであれば自らがリーダーとなり周囲の人間をアジテートしていたでしょう。何故ならリーダーを支持する人間は協調能力が高く自己表現が苦手だからです。そのためリーダーに意見の代弁及び自己保全を委ねている状況です。このように周囲を「YESマン」で固めているリーダーは必然的にプライドが高くなります。それと同時にテリトリー意識に芽生え他のコミニティーや自己を否定する存在に対してシャッターを設けるのです。なにもこれは私人間に限った事ではありません。国家が国民に示しをつけるために威厳を保つ事と同じです。このような悪循環から、自己を肯定する存在が常備されていたことで否定や批判に対する免疫が弱まってしまったのです。

リーダーシップのスキルを有する人間の他に、権威主義に陥ってしまうタイプは否定や批判を受容することが苦手です。権威主義とは身分や地位、体勢にすがるタイプの人間を指します。

そして、いじめられっ子や主観的な人間が権威主義に陥るケースが多いです。これらの人間は共通して対人関係に「平等性」や「害・無害」を求めます。平等性とは、同じ身分や立場の人間とは対等にありたいとする原理です。害・無害とは対外関係において自己を否定する存在か肯定する存在かの二者択一で処理する考え方です。この、どちらも自己の否定や批判には敏感ですが、例外があります。それは権威です。ここで示す権威とは学校の先生や身分が上の者を指します。そして、これらの権威にすがることで「平等性」「害・無害」の原則、双方をクリアすることができるのです。何故なら、初めから身分が定まっている者(優越している者)に対しては、プライドを発揮する必要性がなく、また学校の先生は自己の害に成り得ないからです。権威主義者は、同じ内容であっても「友人からの指摘」と「先生からの指摘」では全く異なった反応をします。友人からの指摘には耳を貸さず、先生からの指摘には傾聴するのです。何故なら「平等性」に基づいたプライドが邪魔をするからです。予め優劣がついた関係では自己の否定や批判に寛容です。しかし身分が同等の者から指摘や批判を受けると彼らは耳を閉ざします。これは、同じ地位や身分の者から指摘を受けることで立場に優劣が生じてしまうのではないか?とする、自己防衛の観点から身分や立場に応じて自己に向けられた否定や批判を制限しているのです。

権威主義に陥る人間は「何」を述べているかより「誰が」話しているかのほうが重要なのです。そんな彼らは、例え自己より優秀の者が存在しようと、同じ身分や立場であるのならば平等でいようとします。学生時代はそれで良いかもしれません。しかし人間の能力は千違万別です。同じ年齢や身分だからと言って能力も均一であるとは限りません。そのため、適材適所に仕事を分担するためにも、権威主義的考えは賢いものとは思えません。

最後に、権威主義に陥る人間は警察官に「なりやすい」です。権威主義者は否定や批判を全く受け入れられないわけではありません。先程も述べたように、彼らは権威(上司や警察組織)には寛容です。そのため、警察組織からは重宝されます。第一章で説明している通り「なれる」は警察組織が欲している人材です。何故なら警察組織にとって使い勝手が良いからです。詳しくは第一章をご覧ください。しかし「むいている」か?と聞かれたら答えることが難しいです。権威主義に陥る人間は皆共通して無自覚です。ですので、実害が生じているとしても本人には、弊害が発生しません。ここが権威主義者のややこしいところです……

二因子説 一般因子と特殊因子が比例関係にある 

多因子説 独立した因子が存在する

一般因子=基礎知能 基礎能力

特殊因子=才能


・いじめられっ子の弊害
ここでまた「いじめられっ子」の話です。
私なりに「いじめられっ子」の特徴を研究したところ彼らには共通点がありました。それは、過去にいじめられた経験がある人間は共通して「人の話しが聞けない」という点です。これは元から彼らが話しを聞くことができない人間だったという訳ではありません。いじめを受けている過程で「いじめっ子」によって性格を変えられてしまったのです。私の周囲には過去にいじめを受けていた友人が数人います。そして彼らは話す時に必ず物事の「否定」からコミュニケーションを開始します。この「否定」とは自己防衛の一種です。他人を貶したり、自分には「刺」があるのだと周囲に主張することで近寄り難い雰囲気を醸し出します。このことにより他者は「元いじめられっ子」を遠ざけます。これは本人からしたら自己を守っているつもりなのでしょう。たしかに相手と対立する上では先制攻撃は効果抜群です。自分がいかに面倒くさい人間であるかを相手に伝えて「いじめ」のリスクを回避することは懸命な判断です。
さらにここからが煩雑となります。「いじめられっ子」には元々「同調性」が備わっています。この「同調性」が「いじめ」により「否定型同調性」へと変異するのです。公の場や職場、学校などでは同調圧力から常識人を演じていますが明らかに「みんな」とは違う価値観の中で彼らは生きています。この、一見「みんな」と同じ彼らですが、実際に「みんな」と接した時にズレが生じてしまうのです。これにより、さらに「いじめられっ子」は孤立してしまいます。しかし彼らは一連の防衛機制を必要枠として捉え「友達はいらない」「一人でもいい」と殻に籠もってしまうのです。
これが「弊害」です。
私も正直「友達はいらない」と考えています。しかし「友達」と「人間関係」は全くの別物です。「いじめられっ子」の防衛機制は小中高の「友達関係」では役に立つかもしれません。しかし社会に出ると「友達関係」から「損得関係」に移ります。当然社会に出ても「いじめ」はあります。しかし「損得関係(社会)」においては「人に頼る」「人にお願いする」は必須になります。これは「友情」や「信用」ではなく社会においての必要枠です。何故なら、利益を生むために必要な行為だからです。あなたは仮に、仕事で分からない事があったらどうしますか? 仕事で他人の力が必要なときは? そしてこれらのとき「あなた」はどう振る舞いますか?
きっと「あなた」はこう答えるでしょう。「そういうことはちゃんと頼るしお願いもする」と、これだから「あなた」は嫌われるのです。なにかを「頼む」や「お願いする」などの行為は前提として「あなた」も相手に対して「利益」を残して置かなければなりません。この「利益」とは良好な「社交辞令」であり「人間関係」です。
誰も無愛想で殻に籠もった人間の「頼み」は聞きたくはありません。そして、このような雰囲気ではやがて「頼らない」「頼まない」「助けない」が当たり前となります。
いい加減気付いてください。厳しい言い方にはなりますが「あなた」がいることでパフォーマンスが低下し本来生じたはずだった利益が失われるのです。「能力」が低いにも関わらず「自分ファースト」を貫くことは「害」以外のなにものでもありません。
「元いじめられっ子」は共通して「自分が一人でいても他人に迷惑かけなければいいでしょ」と考えています。しかしそれが迷惑なのです。学生時代はそれで通用したでしょう。しかし社会に出て「社交辞令」としての「人間関係」が行えないことは社会不適合者と変わりません。
「いじめられっ子」の弊害はまだあります。最初に触れた「人の話しを聞けない」です。いじめられていた故に彼らは、人の意見を聞けなくなってしまったのです。理由はシンプルです。例えば会議なので「私はあなたが提示するA案とは異なりB案が適切かと思います」などの場面で「元いじめられっ子」はこのやり取りを「自身に対する反対意見」と受け取り、防衛機制から「否定」を展開するのです。何度も述べているように彼らには「同調性」があります。そのため、中途半端に相手の意見を「否定」したものの自身の代案を述べずに会議自体が有耶無耶になる、などのケースが多々あります。
「元いじめられっ子」にとって「反対意見」は「敵」です。自身に賛同する「意見」以外、「否定」しなければ「敵」に「弱み」を突かれてしまい、また「いじめられる」と脳が本能的に解釈しているのです。相手からの「意見」や「指摘」を一元的に「害」だと捉え、「自分のためになる指摘」と「悪意ある指摘」の区別が付かないのです。改善することで己の利益になる「指摘」や「意見」も「敵」として門前払いする「元いじめられっ子」は自身の成長の道を自らの手で閉ざしているのです。

・コミュニケーション能力
はじめに「公務員」と「会社員」の違いは何でしょうか?
答えは簡単ですね。雇い主が「国」か「資本家」の違いです。原則として公務員(行政職員)は国民にサービスを提供することが仕事です。反対に民営組織では「利益」を発生させることが仕事です。
それでは「公務員」と「会社員」は「何」によって自己が「評価」されるのでしょうか?
まず、民営組織は「利益」を求める組織です。そして「あなた」がどのくらい「利益」を発生させられたのか、の貢献度は「数値化」することが可能です。しかし「公務員」はどうでしょうか。先に述べたように「サービス」を提供することが「公務員」の前提です。しかし、この「サービス」は抽象的で「数値化」できるものではありません。
警察官であれば検挙数や違反切符の数で「あなた」を評価することもできますが、それでも「会社員」と比べると「数値化」できる「材料」は遙かに少なく感じます。
では、相手が「あなた」を評価するための「材料」とはなんでしょうか。それは広義に「コミュニケーション」であると言えます。この「コミュニケーション」を「意欲」や「やる気」に置き換えても構いません。この「コミュニケーション」は[第二章 警察官に向いていない人間・いじめられっ子の弊害]で「人間関係」として述べた通りです。
故に「コミュニケーション力」が直接的に「相手」が下す評価へ繋がるため「警察官」においては必要なステータスであると言えます。これらより「内気」な性格の方は「警察官」には適していません。
※ 内気な性格であっても公私を分けた対人対応が出来れば問題なし

・警察組織には多種多様な部署がある
私は「警察官の適性」について説明していると「警察組織には多種多様な部署があって……いろんな個性が…認められているんだ‼︎」とよく反論に合います。
ですが、彼らが主張することは全く持って意味が不明です。
何故なら、あくまで「統計的」な「話し」に過ぎないからです。何事にも「例外」は発生します。絶対は存在しません。そのため「統計」から「推察」して物事を述べる以外に道はありません。
警察組織にはたしかに様々な性格(個性)の持ち主が仕事をしています。しかし「あなた」の性格に適した「部署」に配属される確率は決して高くはありません。
またもや私の友人を例えに挙げましょう。私の友人「A君」は自衛官を目指していました。しかしA君は学業不振で幹部として自衛隊に入隊することは厳しい状況です。そして、なにより体格も小柄で運動神経も良くはありません。そこで私は「今のままでは自衛隊は体力的に難しいんじゃないの?」と指摘しました。これに対してA君は「知ってるよ‼︎ だから音楽隊に入るんだよ」と、答えたのです。夢があることは素晴らしいことです。ですがA君は音楽隊に至るまでに必要な「適性」や希望の部署に入れなかった際の「リスクヘッジ」を考えていないのです。
警察組織もこれと同様に「どんなあなた」にも適した「部署」があることは確かです。
ですがその「部署」に配属される「可能性」があるか否かは全くの別問題です。
故に状況を平均化する必要性があるのです。
・私なんかが警察官になれる?
「私なんかが…」と消極的な態度を示す方が多々います。そんな「あなた」に一言…「警察官は敷居が高い職業」ではありません。これまで[警察官について 〜これから警察官を目指す若者達へ〜] を読んで頂けたのならば分かることです。これは「警察官」に限った事ではなくほとんどの仕事に「敷居」などは存在しません。ただ「適性」がある者が成功して「適性」がない者が失敗するのみです。ですので悩むだけ時間の無駄です。それよりも「勉強」や「資格取得」「運動」などに取り組み自身を磨く方が懸命です。
[第二章 警察官に向いていない人間・コミュニケーション能力]では警察社会におけるコミュニケーションの重要性を説明しました。そのため採用面接時にも「社交的」であるかが見られます。そして、自身の無さは態度に出ます。「おどおど」や「目が泳ぐ」現象はまさにそれです。面接官はこのようなコミュニケーション弱者を採用したいとは思いません。
「自身の無さ」は「人(面接官)と上手く話せない」に繋がり相手からは「社交性が無い」と評価されます。
このような悪循環を防ぐためには「私なんかが…」と消極的にならないことが重要です。そのためには「自分に自身を付ける」ことから始めましょう。

・友達が少ない人間
友達が少ない人間は警察官に適していないのでしょうか?
この問いは非常に難解です。何故ならば「あなた」が置かれている環境が私には分からないからです。ですが社会一般には「友達の数」=「コミュニケーション能力」だとされています。コミュニケーション能力が高い人間は誰とでも良好な「人間関係」を結べるからです。しかし様々な分野で述べた通り「コミュニケーション能力」が発現する前提に「協調性」が内包されてなければいけません。そしてこの「協調性」は「悪」にも「善」にもなります。そのため「友達の多さ」が「善」だとは一概には判断できないのです。では、どうする事が答えなのでしょうか? [第二章 警察官に向いていない人間・いじめられっ子の弊害・コミュニケーション能力]を予め読んで下さった方は答えが分かるかと思います。
つまりは「社交辞令的なコミュニケーション」が出来るか否かです。また、警察官に限らず社会では「友達を作るためのコミュニケーション能力」はいりません。故に「社交辞令」と「友達関係」を分けた考え方を持っていれば問題は「ない」と言えるのです。仮に「友達」が少なくともその他の「人間関係」がしっかりとしていれば心配はいりません。
かといっても「友達関係」に「難」がある人間は基本「社交辞令的な人間関係の構築」も苦手な傾向にあります。たしかにそうです。社会にいきなり放り出されて「学生時代とは異なった人間関係の構築だ」と大見得を切られたところで上手く行く可能性は低いでしょう。
ですので「失敗」しない為には前もった布石が必要となります。この、布石を置く方法は大きく分けて二つあります。それは「改善」か「変更」です。前者の改善とは努力によって「性格」を是正することです。しかしこのやり方はオススメできません。理由は「努力」が生じることには「苦悩」が生じるからです。一般的には「努力」は人間の成長を促す大切なツールとなります。しかし「性格」の「改善」における「苦悩」は賢い選択とは言えません。何故なら「性格」や「適性」とは「生得的」なものだからです。なぜ「あなた」は「個性」を捨ててまで「やりたい」職業に就きたいのですか? 私は不思議でなりません。予備校講師である林修先生の言葉を借りるのならば「偶然性」と「必然性」の原則です。「必然的」に生じるものは「あなた」の「個性(能力や適性)」であり「あなた」が「なりたい」と感じるものは「必然的」な事象に過ぎないのです。あなたが偶然に感じた「なりたい」とする意思は外的な影響が大きいです。そのため「偶然」から生じた「意思」は長続きしません。反対に「必然」から発生した「あなた」の個性は一生ついてまわることになります。故に「必然性」からなる「適性」や「個性」は重要なのです。
この文章を読んで尚も「警察官」を志したいという気持ちがあるのならば目指せば良いかと思います。しかしその先の艱難辛苦は全て「あなた」の責任です。そこで「環境が悪い」「周囲が悪い」は一切通用しません。ですので「あなた」が警察官に適している「能力」や「性格」の持ち主なのかを今一度[第一章 警察官に必要な能力]で確認しましょう。
そして「変更」です。これは名の通り「自身のライフプランを変える」と言う意味です。
つまりは「性格」の「改善」に費やすはずだった「労力」を「あなた」が本来あるべき「個性(能力)」を、伸ばすことに「投資」することです。例えを出すとすれば競馬です。あなたは、勝つ可能性が高い馬と低い馬どちらに馬券を賭けますか? 普通は勝つ確率が高い馬にお金を出しますよね。それと一緒です。仮に、競馬のようなゲームであればハイリスクハイリターンはハラハラドキドキと面白いでしょう。しかし人生はゲームではありません。そのため「あなた」の「能力」に適した「環境(社会)」に「人生」を「賭ける」ことがベストだと言えるのです。

・主観的な人間

主観的な人間が警察官に「向いていない」のは当然だと言えます。[第一章 警察官に必要な能力]で「論理性」や「客観性」の重要性を詳しく説明しました。そして、論理性や客観性の対となる概念は「主観」です。

「主観的」な人間が警察官に適していない理由は今まで述べてきた通りです。加えて、主観的な人間の大半が感情的に自己を表現します。何故なら「論理性」や「客観性」を用いて理性的な意思疎通が図れない彼らには「感情」でしか自己表現ツールが残されていないからです。人間としての理性が乏しい彼らは、動物と変わらぬ態度で外界に自己の感情をアピールします。

例えば、学校の先生が小学生を叱る場面を想像してみてください。そこで、叱られた生徒は先生の指導に同意する旨の意思表明をしますが、しばらくの間ふてくされた態度を取ります。こうして、自身の心情を態度に醸し出すことで、外界から「私は不快だ」と思わせることができるのです。この、態度に表す技法は動物が持つ本能的な自己防衛の一種でしょう。感情を、表情や態度に表すことで、パーソナルスペース内に相手を侵入させないための対抗策を、彼らは講じているのです。しかし、私たちは人間です。動物であれば、態度や剣幕で相手を威嚇していれば状況を打開できるのかもしれません。ですが、人間には個体ごとに異なった倫理観や価値観があります。そのため、自分が「気に食わない」と思った出来事から、態度や表情で相手にその感情を伝えても「何のこと?」「なぜ不機嫌?と、なってしまいます。自身の尺度から物事の良し悪しを図る事は危険です。あなたの嫌いなものが、万人共通で嫌いとは限りません。反対もまた然りです。

このような、感情的な態度を示す人間の根底にある心理は「承認欲求」です。承認欲求とは、他者から自己を認めてもらいたいと思う欲求です。この、欲求自体に害はありません。ですが、承認欲求を満たす上で「無対価で相手から認めてもらおう」としていませんか? 

「なにもにしない」つまりは表情や態度で意思疎通を図る、これでは何の解決にもなりません。このような人間は、不快になることには理由があるのだと他者に理解を期待します。論理を用いず、態度や表情で意思疎通を取る行為の裏には「相手は自分を理解しているだろう」との期待が内包しているのです。これは、自身の価値観や感受性が他者と同一基準である前提でなければ、生まれない行動原理です。そこには、他者の存在が欠落しています。自分の価値観を無意識に重んじるあまり主観的になってしまうのです。

私は、断言します。対価となる代償を支払わなければ他者から理解を得ることは不可能であると。※代償=正しい意思疎通

無条件で「自分を認めてもらえるだろう」とする甘えた考えは卒業しましょう。そのための一歩として、論理と理性によってコミュニケーションを行うことが大切なのです。

主観的な人間は感情によって相手と意思疎通を図ります。客観性や論理性が他者よりも劣ると、その代替機能として感情的なバイアスが補助機能としての役割を果たすのです。

このようなスパイラルから脱却するためには、感情的な性格を形成させている主観性を排除するにつきます。

人間は、いらない性質を退化させる適応能力がDNAには備わっています。自身の感情を、態度や表情に表してしまう性格も、いわば論理性が欠如したことによって生まれた自己防衛の能力ともいえます。ですから、それらの要因となる主観性を排斥し、論理性を身につける事で、改善は可能であると考えます。

それでは「論理性」や「客観性」を高める方法を以下に紹介します。

それは「本を読む」ことです。

残念ながらこれはあくまで私の憶測です。何故なら私は「何の努力もせず」に「論理性や客観性」が備わっていたからです。そのためこれらの「能力値」が低い方がそれを習得する方法を私は知りません。ですが「予想」としてなら教示できます。

まず本とは「作者」が「あなた」に「何か」を伝えようとしていることが前提です。そのために「作者」は根拠や理由を示した後に「結論」を「あなた」に伝えます。それは、根拠や理由がなければ「あなた」の「何故?」という疑問が晴れないからです。そして、これらの「何故?」を解決するための「理由」や「根拠」を捻り出すには「論理性・客観性」が必要となるのです。

結論として、これらの「論理性・客観性」を含んだ文章を多く読むことで「あなた」にも自然とこれらの能力が身につくのではないかと思います。

「感情的な性格」と「感情を態度や表情で表す性格」は全く別のものです。


・プライドが高い人間
「プライドが高い人間」は絶対に警察官には適しておりません。何故ならプライドが高い人間は自分のプライド以上のことを行わないからです。そして、そのような人物は仮に自分よりも能力が高い人間がいたとしても自らが先陣を切って物事を進めようとします。そのため、自己のプライドと全体のパフォーマンスを天秤にかけた時に無意識に自己のプライドを優先するのです。このように「プライドが高い人間」は「仕切りたがり屋」でもあります。これは「害」以外の何者でもありません。そして「リーダーシップ」と「仕切りたがり屋」の見極め方は、自分よりも「高次の存在」と遭遇した時の対応で分かります。それは、自分より優れた人間を認めてその相手に自分の「考えや方法」を「譲渡」出来るかの違いです。私はこのことを「譲渡関係」と名付けています。そして、この「譲渡関係」が出来ない人間は必ず人の足を引っ張る「害悪」となります。そのため、どのような状況下においても「仕切りたがり屋」が存在する環境下では「仕切りたがり屋」が持つ以上のポテンシャルを周囲の人間が発揮出来ずにパフォーマンスが低下してしまうのです。
この「プライドが高い人間」は基本的に「主観的」であり「批判」を認めることが苦手です。そして[第二章 警察官に向いていない人間]で取り上げた大抵の事項に当てはまってしまいます。むしろ、ここまで警察官に適していない人間が警察官を目指している事自体レアケースなのかもしれません…。

・性的嗜好
世の中には異常性癖者と呼ばれる者達が存在しています。特に例と挙げられる部類が「盗撮や小児性愛者」です。それでは、警察官として適さない性癖を持った者は警察の職に就くべきではないのでしょうか?
この問いの答えはNOです。もちろん限度はあります。
前提として世の中の男性は「全て変態」です。そして口に出さないだけでやましい妄想の一つや二つ心の中では抱いているはずです。でなければ人類はとっくの昔に滅んでいます。警察官とて人間です。性欲があります。ですので「性癖」を理由に切り捨てることは全くのお角違いです。
問題は「性癖」ではありません。如何に「欲求」や「性癖」をコントロールできるかが問題なのです。
「でも性犯罪を犯す人間のほとんどが異常性癖者だろ」と、思ったそこの「あなた」それは間違いです。男性は皆、心の奥には他人には言えないような「性癖」があります。それが「性格上」外に現れてしまうかの違いです。また「限度」も重要となってきます。例えば、全く女性経験が無い男性が端麗で美しい女性に魅了されるのと、女性経験豊富な男性が同じ女性を見るのでは気持ちの起伏が異なります。これが「限度」です。この両者二人の男性が仮に同じ「性癖」を持っていたとしても「性癖」のコントロールに差が出ることは明白です。ですので「性癖」ではなく「あなた」がそれを「制御」できるか否かが重要なのです。