リリ曰く、人は魂の場所を探していて、その人が居心地のいいところにいる。
例えば、意地悪な人は意地悪が好きだから意地悪なところにいる。
不幸な人は不幸が好きで、悲劇のヒロインになりきれる場所にいつく。

本当に不幸になりたい奴なんていないが居心地がいいから居座ってしまう。
それも結局自分が望んでいることになってしまう。


この考え方、理解はできるが実感はできなかった。

今日本屋でうろついていた時、幻想文学のところで立ち止まった。
「ちょっと前までこういうの好きだな」と思っていた。

「食とエロス」と見出しがついた雑誌を手に取る。

グラビアがついていて、その写真には可愛くない女がチョコレートソースを口から垂れ流し、血のような苺ジャムを体に塗りたくっていた。

漫画には食べる女にフェティシズムを持つ男の話。

挿絵はグロテスクでエロいものばかり。

ちょっと前まで、俺こういうの好きだったな、と思った。
そこでわかった。俺の前居た魂の場所はここだったのだ。

きっとあの時ならあの絵を見て安心感のような充実感のようなものを感じていたのだろう。それが居場所というものだ。

おれはあんなジメジメして気持ち悪いところにいた。
欲望を肯定していた。それは生きることだから。
欲望を肯定するあまりの過食。それは大罪。
過度のエロス、耽美は欲望を肯定するあまりできた産物だ。
それは背徳で、背徳には良からぬ連中が集まってくる。

欲望を肯定する。それは逆に言うと俺が飢えていたのだ。
俺は欲望に忠実に生き、生を全うしようとした。その行きすぎた欲望の源は生へのエネルギー(エロス)なんかではなく単なる飢えだった。

その世界の深みに嵌るごとに飢えは巨大になっていく。
その飢えが餓鬼を呼んだりしていたのだろう。

今は、あんなものを見ればおぞましいとしか思わない。

俺は飢えていないからだ。それもリリのお陰だが。