ずっと

ほんとうの仲間を探して

さすらってきました



どこまでも続く

得体のしれない孤独感を原動力に。



求めて

やっと得られた仲間とは

ことごとく離れることになり


あまりの絶望に

底のような場所へ降りたこともあります




いまは

その孤独感は

どこを探してもありません


あったことが

不思議なくらいに








探すのをやめた頃

セラピストを始めることになり


最初はお客さまとして

繋がってくださった方たちが

わたしを見つけてくれたんだ…

と気づいたことがあります





ひっそりと

まるで見つからないようにでも

しているようなわたし



どうやって見つけたんですか?

などと真顔で聞いてみたりして。




なぜか見つけて

繋がってくれたひとたちがいました




近頃、セッションというより

確認作業のような対話が多く

彼らのためにできることは

もうほとんどないなあと


そうなっていくにつれ




わたしは見つけてもらうために

仲間と再び繋がるために

セラピストをしていたのかもしれない

とおもいました




教師をしていたら

おそらく会うこともなく

人生は過ぎていたでしょう




仲間たちの

目覚まし係を引き受けてきたけれど


その役割は

そろそろ終えようとしている




もうとっくに目覚めた仲間たちと

あとは

どう生き

どう遊ぶかなんだろう




これまでの形、内容のセッションは

本格的に終わりになっていく予感がします



すべてのひとに

問題などなく


どう生きたいかの選択と行動のみ


どんなせかいをみたいか…それだけの違い



いい、悪い

早い、遅い

高い、低い


ではなく。





そうなってくると

生きたいせかいが

ますます繊細にわかれてくるでしょう




ひとりひとりが決めていい

ということは


ひとりひとりに自由と責任とがある

ということ



だれの

何のせいでもないわけです





愛されないのは

親のせいでも

パートナーのせいでもない


もちろん

本人のせいでもありませんが


過去のどこかの記憶を信じているから

それが映写されていくことに


気づいていくことになるでしょう




だから

親との関係を紐解いたり

パートナーとの繋がりを確かめたりも

有効ではありますが

その証拠探しに終始しても

人生は変わらないのです




過去生でどんな因縁があっても

いまがどうか、が肝心であり

いま、どう行動するかにかかっているから



いまを

自分で決めて

自分らしく生きないのならば


セッションやワーク、ヒーリングなど


自分探し

だれかとの理由探し


何度、何を受けても

意味がないのかもしれないのです




何度同じことを言われても

"変わらない"という選択ならば


それ以上

ひとはできることがありません




反対に


自分の感覚をコンパスに生きているひとにも

ほとんどできることはありません



そのまま GO.

以上。




そう考えると

その、ある意味

二極の間にあって

あらためて何がしたいのだろうと考えています




 
わたしは

自分のコンパスに究極にしたがうひとと

このせかいを縦横無尽にすすみたい




だとしたら

従来型のセラピストは終わりだなあ

未来形のあり方を模索しています。




ダイヤモンドダイヤモンドダイヤモンド



仲間探しの旅の果ては

孤独…という幻からの卒業


だれとどう生きたいのか

それがより見えてきた気がしています




ひとりであっても

だれかとであっても



わたしは

どんなときも

わたしで在ることの実践編



ともに歩みたい仲間がいることは

ずっと楽しみにしてきた未来に

今まさに立っているということでもあります




これからも

根拠なく

楽しみなのです