絶世の美女、恋多き女性、平安時代を代表する女流歌人、晩年は衰えて悲しい人生を送った人、、。
そして、全国各地に、住まい跡や、姿見の井戸や、墓や供養塔がたくさんあり、、。
深草少将なる貴人を百夜通わせたが恋は成就しなかったり、、。
同じく言い寄ってくる男性を常に拒む女性であったり、、。
またそれは、身体的に不具合があるためだと面白おかしく語られたり、、。
逆に多くの男性と恋におちる「色好みなる女」であったり、、。
歌合せの席で盗作の濡れ衣を着せられた時に、とっさの機知で草子を洗い、墨を流してピンチを切り抜けたり、、。
歌を書いた短冊を神泉苑の池に浮かべて、雨乞いをしたり、、。
果ては、年老いて醜い姿をさらしたかと思えば、髑髏(されこうべ)になってまで目に生えた薄に「あなめあなめ(目が痛い)」と歌ったり、、。
その他、様々な話が、全国各地に残るのです。
『古今和歌集』では、安倍清行、小野貞樹、文屋康秀らと歌の贈答をし、『後撰和歌集』では、遍昭僧正と歌のやり取りをし……。
※これらには、後世の伝説の影響を受けた編集が入っているようです。
でもね、ここでハッキリ言います。
小野小町なる、特定の歴史上の人物に行き当たることはありません。不可能です。
たくさんの【物語】に語られる小野小町は、物語、小説、伝説、ファンタジーの中の"架空の女性"です!
同時代と想定されている在原業平は、正史『日本三代実録』に載っている、天長3年(825)に生まれ元慶4年(880)に没した平城天皇の孫である貴人に当たります。物語、伝説、ファンタジー、作り話の"実"を食べていけば、最後に"真実"に当たる"種子"がぽろっと残るように……。
でも、小野小町は、物語、伝説、ファンタジー、作り話の"皮"を剥いでいったら、何も残らないのです。
偉い先生方の中には、『○○』に載っている「□□(誰それ姫)」に特定しようといろいろ苦労されていますが……。でも、最後は推理、想像を加えないと導けないようなお話になっています。
『玉造小町子壮哀書』言う詩文があります。漢文で書かれた長い序文に本編の漢詩が続きます。簡単に(!?)あらすじを書きますと……。
★長い文を"簡単に"するのには無理がありますが!
序文で──。
この詩の作者は、道でボロボロな姿でさまよう老婆に出会いました。そこで、その老婆の素性を尋ねたのです。すると、老婆は自分の生い立ちを話しました。
「私は、裕福な家に生まれ、贅沢で優雅な生活を送っていました。求婚者はたくさんいましたが、家族は、王の妃にすること以外、考えてはいませんでした。
ところが、若い頃、両親と兄弟を相次いで失いました。仕えていた者も去っていき、家は一気に傾いて、食事にも事欠くまでになりました。
不幸な身の上の人を、これまでは他人事と思っていたのに、今は自分がそうなりました。これからは、尼となって仏道に帰依しようと思います。しかし、着る衣も供える食もありません。仏さま、どうかお慈悲によりお導きください。」
作者は、この話を聞いて、この悲しみを他人事とは思えず、白楽天にならって「詩」を作ることにしたのです。
そして「漢詩」が続きます。
道で老い衰えた老婆に会いました。若い頃は贅沢に暮らしていましたが、両親が亡くなって暮らしが立たなくなり、漁師のもとに嫁ぎました。その夫には、もう一人妻がいました。争いの絶えない中、かわいい男の子が生まれました。産後の苦労もあり、容姿は一気に衰えました。夫は稼ぎが少なく、暴力をふるい、夫婦の仲も悪くなりました。子どもに食べさせるのもやっとでしたが、さらに食べるものと言えば"なまぐさもの"ばかり。次第に仏道に心が傾いていきました。そんな時、最愛の子どもも夫も失い、かなしみの底に陥りました。
極楽を思い描き、一心に往生を願いましょう。
私も仏を讃えようと、この詩を作ったのです。
おっと、DVもありですか!
現代社会でも、あり得るような「お話(漢詩)」ですが、これは、平安時代に作られたもののようです。
平安時代の終わり頃には、この『玉造小町子壮哀書』に登場する女(老婆)が、小野小町と同一人物であると言うことを書いた書物が登場していましたから……。

鎌倉時代の終わり頃、兼好法師は、『徒然草』第173段で次のように言っています。
小野小町がこと、極めて定かならず。衰へたる様は『玉造』と言ふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和の初めに隠れ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや。なほおぼつかなし。
簡単に、訳してみますと──。
小野小町のことは、ハッキリ言ってワカリマヘン!
衰えた後の姿は『玉造……』と言う本に書かれています。これは、三善清行(847-918)が書いたと言う説もありますが、弘法大師空海(774-835)の『著作目録』に"その書名"が載っています。
でも、弘法大師は承和年間(834-848)に亡くなっているではありませんか。小野小町の全盛期は、その後のことですからね!
ハッキリ言って、ハッキリせえへんわ!
"あの"兼好法師は、小野小町のことは、謎で"分からん"と正直に言ってるんです。
おもしろい"注釈書"がありまして、『徒然草』より前、鎌倉時代はじめの"伊勢物語"の注釈書『冷泉家流伊勢物語抄』と言うんですけれど──。
無茶苦茶に要約しますが──。
小野小町は、何と!──在原業平と夫婦になって共に暮らしていましたが、大江惟章と言う人の甘言に従って九州に行ったのです。でも、その相手の惟章は亡くなってしまいます。その後、仁明天皇の皇子に仕えて住吉に移り住みました。その時、偶然に業平と再会したのです。
小野小町は、落ちぶれた我が身を恥じて姿を消します。それから、井出寺の別当の妻となり、山科に住むようになったとか……。
何とも、お忙しい小町さん!
この後、弘法大師の『玉造小町子壮哀書』にふれながら『伊勢物語』の解釈が続く訳ですが、、。
そこで──。
小野小町と弘法大師の年齢計算から『玉造小町子壮哀書』の弘法大師作説に疑問を出し、仁海僧正説も示しながらも、「弘法大師は未来を見通せるスーパーマンなので、小町の運命をも予見して、これを書いておいたのだ」と、ブッ飛びそうな極端な結論に至っています。
と言うわけで、ここ小野の随心院に伝わります、そして謡曲『通小町』の世界の「小野小町と深草少将のお話」はファンタジーと知りつつも!

想像をふくらませてみます。
深草少将とは誰?
「良少将」と呼ばれた良岑宗貞すなわち後の遍昭僧正だとか、「深草の帝」と呼ばれた仁明天皇だとか、いろいろありますが──。
私は、個人的には──。
目の前の大岩街道が、徒歩1時間ほどの距離で、仁明天皇陵や仁明天皇の菩提を弔うために創建された嘉祥寺のある深草と、小野の里を結んでいますから……。
(※前に紹介した遍昭僧正の墓も山科盆地内で近いですけど……。)
仁明天皇と小野氏ゆかりの更衣か采女の"隠されたロマンス"が、モチーフになっているかも知れない──と、勝手に考えるのです。
★前にも1回、書きましたが……。
それが、後の時代に"誰か"が──。
いずれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひけるなかに、いと、やむごとなき際にかはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり
──と書き出した『物語』のモチーフになったかも知れないと、さらに勝手に想像するのです。
【前置き】が、大変長くなりました。
随心院のお話に戻ります〈──と言いますか、久々の記事です〉。
長屋門を出て、薬医門の前を西へ(の方へ)、小野梅園の前を通ります。左手にと、林と竹薮が見えているのですが、そこを左手に曲がり、入って行きます。

その奥に見えてきますのが……。
地面に穴が掘られ、石を敷き詰めて囲ってあります。古い井戸の跡です。「化粧の井戸」と呼ばれているそうです。

安永9年(1780)に刊行された京都の地誌、『都名所図絵』には──。
「小野随心院、勧修寺の東なり、曼荼羅寺と号す、又、小町水、門内南の薮の中にあり、此の所は出羽郡領小野良実の宅地にして、女小野小町つねに此の水を愛して艶顔を粧ひし」とありました。
小野良実さんとは、あくまでも"伝説"の上ですが小野小町のお父さんとされる人物です。ここはその邸跡で、この井戸で、小野小町が朝夕、この水で化粧をこらしたと伝わるのです。

今は、水は湧き出してはいませんし、何だか冷たい空気が流れる場所で、怪しい雰囲気のある所です。
境内の南側を通ります。築地塀に沿って本堂の裏側に出るわけですが、道々、たくさんの詠者、俳人の皆さんによります歌碑・句碑が並んでいます。

そして、ちょっと寂しい道を歩んで行って、本堂の真裏(東側)の辺りに行きます。
この宝篋院塔は「金堂跡」を示します。

慶長年間(1596-1614)に、九条増孝門跡がこの地に金堂を建てと言われます。明治のはじめ、隣りにあります大乗院を再興する際に移築されたと言うことです。
さらに、その奥、竹薮の中にお饅頭or鏡餅orみかんのような丸い石が積み上げられた塔が見えます。
文塚と言うそうです。

深草少将をはじめとする、当時のたくさんの貴公子たちから小町に寄せられた「千束の文」──つまりラブレターの数々──を埋めた所だと伝えられる石塔です。
文塚のあります竹薮から南の方に行くと、密教の鎮守神であります清瀧権現がまつられています社の前に出ます。

清瀧権現(せいりゅうごんげん) は、お隣りのり醍醐寺の守護女神として、上醍醐にも下醍醐にも、祀られていますよね。
元々は──。
インド神話に登場します善女龍王のこと。
空海が仏法を学んだ唐の青龍寺の守護神で、青の字に「さんずい」がついて「清龍」となりました。さらに、空海が帰国する際に船中に現れて密教を守護することを誓ったため、わが国に勧請されました。
その時、海を渡ったので龍の字に「さんずい」がついてを「清瀧権現」と呼ぶようになったと言うことです。
空海が、神泉苑で「請雨修法」を行った時に出現したのは、この善女龍王です。
そして、真言密教を守護する女神となり、昌泰3年(900)頃、醍醐寺山上に祀られました。

「清瀧権現」こと善女龍王のことを詳しく書いていくと、またまた長くなりますので、もう止めておきますが……。
前回〈その4〉でも書きましたように、真言宗(密教)の寺院として、また、この南にあります真言密教の"一大学府"醍醐寺と関わりの深い寺院として、清瀧権現がお祀りされているのです。
もっと詳しくは──。いずれ、、。
醍醐寺の「上醍醐」、醍醐水泉の前に建っています清瀧宮拝殿(国宝)と、「下醍醐」境内に建っています清瀧宮本殿(重要文化財)をお詣りした時に、書きましょう。
今回は(も)、とてもとても長くなりましたので、もう終わります。
ゆっくり読んでやってくださいませ!
また、同じパターンで「どなたか」のことを書くかも知れませんが、その時もヨロシク・・・