逢坂の関 と 蝉丸神社 その2 | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

続きです。
今回は、簡単な記事になります。本編は、次回になる予定です。

「逢坂山関址」の石碑から、国道1号線旧・東海道〉をさらに大津市方面に向かって歩きます。さすがに交通量は多いです。北側(左側)の方が目的地に向かうには便利ですが、南側(右側)の歩道の方が、広くて安全です。歩いて進む場合は、車には注意して行かないと……。


途中、道路右側(北側)に、弘法大師堂がありました。

弘法大師(空海)の奮跡のようです。
平安時代はじめには、ここは、主要街道になっていたはずですから、空海さんも"当然通っていた"ハズです。
――と言うか!
平安京で活動していた人で、歴史に名前を残しているような方ならば、「ほぼみんな、ここを通過していた」と考えても、間違いはないでしょう……。

"ご詠歌"なのでしょうか?――ひとつお詣りしていただいて、交通量の多い国道1号線を先に進みます。


前回に訪ねていました――。
京阪電車京津線大谷駅近くで、平行して通っていました国道1号線名神高速道路が分かれていました。
それが、目の前で'再び'交差している所を目にすることになります。

↑下の道(今歩いている道)が、国道1号線。上を横切っているのが、名神高速道路です。

その手前――京都市側から見て――に、北側の斜面の上に、神社が建っています。

↑道路の反対側から、撮ってみました。

関蝉丸神社です。こちらは、上社と呼ばれている神社です。

階段を上って行きます。

この日(5月22日)は、お祭りだったようです。


拝殿の上に、さらに階段があります。


やはり、本殿へ、ご祭神・蝉丸さんにお祈りさせていただきます。


蝉丸神社とは――。
弘仁13年(822)、近江守'も'務めました小野岑守により、旅人を守る神さまを祭ったのが始まりとされます。
★一応、蝉丸さんが実在していた(!?)人物だとしても、まだ《その後》ですので、はじめは「蝉丸神社」ではありません!

平安時代中期の琵琶法師・歌人であります蝉丸が、逢坂山に住み、上・下社に祀られるようになったと伝わります。
天禄2年(971)には、輪旨により、「音曲芸能の神」として信仰されるようになったと伝わります……。


※話は逸れますが――。
小野岑守は、"あの最初の遣隋使"小野妹子の4代目の子孫〈孫の孫〉です。美濃守等を歴任した後、陸奥守として活躍、治部大輔・皇后宮大夫を経て、弘仁13年(822)参議と大宰大弐に任命され、公卿に列することになりました。平安時代はじめの、"大政治家"と言えるかも知れません。
また、漢詩にも優れ、勅撰漢詩集『凌雲集』の編纂にも携わったとされます。
あるいは、【"あの"小野篁のお父さん】と紹介した方がいいかも知れないですね!
小野氏近江国との関わりは深く、その史跡はたくさんありますが、それは"ボチボチと"紹介していきたいと思います。

ここは、5分でお詣りを済ませ――。

先を急ぐことにしました。

ちょっと歩いて――。
大津市側から振り返って見ました

道路は国道1号線、線路は京阪電車京津線、遠くに見えます高架が名神高速道路です。


この先――。
国道1号線は右へ、そして国道161号線は左へと、道が分かれる所があります。
大津市側から見ると、国道1号線国道161号線の合流点です。

その国道161号線側、つまり道の北側に、トンネルの跡が残されています。
はっきり言って「廃墟のよう」で、少し"恐い"感じです。

旧・逢坂山トンネルです。
別名、鉄道記念物「旧・逢坂山隧道東口」 です。

わが国の鉄道草創期――。
明治11年(1878)10月、ここ(東側)から。そして12月、西側から、掘削が始まりました。
当時、鉄道敷設は外国人が指導していました。蒸気機関車とか、線路などは、輸入しなければなりません。
でも、トンネルを掘るのは"この国の人"は得意なハズです。
★このブログをお読みの方ならば、江戸時代はじめ頃の吉田光由・光長兄弟が開削した角倉隧道、江戸時代終わり頃の西野水道〈これは先日書かせていただいたところ〉などの例をご存知ですね。
当時の工部省の直轄でありました生野銀山の労働者の皆さんが、伝統的なノミやツルハシを主体とした"手掘り"で、約1年8ケ月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工しました。

鉄道のトンネルとしては――。
「日本人のみの手で施工された日本最初のトンネル」と言えます。

大正10年(1921)、路線変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として、使用されていたものです。
全長664.8m。
――現在は、この東口を残すのみですが。

鉄道の歴史に残る記念すべきもので、わが国の技術史の上でも大きな意義を持つものです。
この国の"トンネル技術"は、世界的なレベルへと、大きく発展することになりました。


話を戻したいと思います

そこから、すぐ近くに、安養寺と言うお寺があります。

山号は、やはり逢坂山です。
別に、「関寺」「関寺安養寺」とも呼ばれていました。

ここから山沿いをまっすぐ北に行くと、園城(三井寺)ですね。
貞観4年(862)、智証大師円珍の開基と伝わります。元々は、天台宗寺門派の寺院で、三井寺円満院に属していたましたが、明治時代になって、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属することになりました。

やはり、「京都~山科~近江~北国」を結ぶ街道にありますので、蓮如上人の旧跡でもあるようなんですね……。境内には、蓮如上人「身代わり名号石」が残っているそうです。

他に、行基作と伝わります阿弥陀如来坐(平安時代後期)が、本堂に安置されているそうです。こちらは、重要文化財に指定されています。
また、観音堂の聖観音像は、「立ち聞き観音」と呼ばれるそうです。『東海道名所図会』などにも載っているとか……。

残念ですが、一般に公開されています寺院ではありません。


この辺りから先は、大津市の市街地になります。
次回に、続きます。