
走りに行くヒマはあるのですが、このところ仕事が《わりと》忙しくて、"紅葉狩り"や「史跡巡り」に出掛けることができていません。
すると、どうなったか?
――このブログに載せる【ネタ】が無くなってきたのです。
そこで、およそ半月前(11月6日)の写真を使って、大変申し訳ありませんが、一乗寺辺りの古刹を訪ねた記事をふくらませたいと思います。
実は――。
圓光寺を訪ねた後、トレーニングを兼ねて、もう少し足を伸ばしたのです。
圓光寺の前の道を北へ、「←曼殊院」の案内に従って住宅地の中を進みます。
曼殊院門跡に向かう坂道を上がると、目的地は見えてきます。

由緒ある天台宗の門跡寺院として、雅な公家文化の真髄を伝える洛北屈指の名刹です。
例えば、京都のことをもっと知りたい、京都通と呼ばれたい……。あるいは、京都検定を受けてみよう――と言う方にとっては、圓光寺や金福寺よりも、まず先に曼殊院門跡のことを押さえておいた方がよいかも知れません。
石段上にそびえ立つ勅使門は、大玄関(重要文化財)へ続く門。ここは貴人がお通りになられる正門です。われわれ一般人は、北の通用門にまわります。

でも、この勅使門は、絶好の紅葉の撮影スポットです。そろそろ辺りの紅葉も美しく色付いていることでしょう。
それでは、北通用門にまわります。

この先に、酵素の研究者・笠坊武夫氏が菌類の供養のために建立された菌塚がありますが、ちょっと遠いので今回は敬遠しています。
とりあえず、受付を通ります。

目の前の建物は、庫裡(重要文化財)です。

↑大きな屋根を撮ってみました。
入ってすぐの所に安置されます大黒天石仏は、甲冑をまとった武神の姿をしています。曼殊院で最古の石仏です。
入口脇の菊の花が綺麗だったので……。

さて、この先なんですが――。
残念ながら、境内は撮影禁止となっていますので、写真を撮ることはできません。
竹の間、虎の間、孔雀の間、宸殿跡脇の渡り廊下を経て、大書院(滝の間、十雪の間など)、小書院(富士の間、黄昏の間)を通り、再び庫裡に戻ってきます。
そして、その途中で数々の寺宝や狩野派の襖絵や障壁画を見ることになります。
あるいは、上之台所――貴人の食事を用意するための台所で、実際に使用された台所の道具も残されています――を通ります。
大玄関脇の、虎の間の障壁画(重要文化財)――虎の絵――は、狩野永徳の筆と伝わります。
宿直の間で、国宝・「不動明王像〈黄不動〉」の複製――原画は京都国立博物館に――は、"話の種に"是非見ておきたいものです。
※園城寺(三井寺)の秘仏を模写した、平安時代後期の画像です。
↑↑↑↑↑
――と言うような話を、写真も無しに長々と続けるのは、非常にストレスがたまります。
それに、寺宝や襖絵・障壁画、お庭の見所を書いていくには、その数が多すぎます!
なので、それは止めときます。
ですから、あとは簡単に(!?)
曼殊院門跡の歴史を紹介しておきます。
一部、外を向いてお庭の写真を撮らせていただきました。それを差し挟みながら書いていきますが、本文の内容とは関係ありません。
なお、何度も言いますが、半月前の様子ですので、葉っぱの色などはかなり変わっていることをおことわりしておきます。

曼殊院は、「竹内御殿」「竹内門跡」とも呼ばれ、天台宗五ヵ所門跡の一つです。
寺伝では、伝教大師最澄が、延暦年間(782-806)に、鎮護国家の道場として比叡山に草創した一坊が、その"はじまり"とされます。
天暦年間(947-957)に、比叡山西塔に移り、東尾坊と号しました。この坊の従事で、後に「曼殊院初代」と仰がれた是算国師は、菅原氏の出であったので、菅原道真を祀る北野社の"初代別当"に補されました。これにより、明治時代の初めまで、歴代の門主が北野社の別当職を兼務しました。
天仁年間(1108-10)、8代忠尋大僧正の時、寺号が曼殊院と改められました。また、北野社別当を兼務する利便性から、北山に別院が建立されたました。そして、いつしかこの別院が曼殊院の主体となっていきました。その後、足利義満が北山殿(鹿苑寺=金閣寺)を造営するにあたり、御所の北に移転しました。
親王や法親王(出家後親王宣下を受けた皇子)が住職として居住する門跡寺院となったのは、明応4年(1495)の第26代慈運大僧正の入室からです。正門である勅使門の両側の白壁に"白い横線が5本"入っていますが、これは「定規筋」と言われるもので、"格式の高さ"を伝えるものです。

ここまでは、どうでもいい話です。
要は――。
元は比叡山中の一坊が、今の北野天満宮との関係から都の北に移転し、さらに室町時代、諸般の事情で御所の側に移転したことから、天皇の血筋の皇子が住する門跡寺院となったと言うことです。

ここからは、大事な話です。
門跡寺院としての曼殊院は、天台教学の道場であると同時に、江戸時代はじめには、文化的な社交場としての一面を持っていました。
曼殊院中興の祖とされる良尚(りょうしょう)法親王は、6歳で伯父にあたる第28代良恕法親王の弟子となりました。後に天台座主となる良恕法親王は、書・和歌・連歌・立花に優れ、国学にも造詣の深い人であったと言われています。
この伯父のもとで学んだ良尚法親王は、25歳で天台座主に任じられました。そして座主を辞した後、明歴2年(1656)に曼殊院を現在の地である一乗寺の里へ移転させ、父である八条宮智仁親王が造営した桂離宮にならって寺観を整えました。智仁親王の意志を継いで桂離宮を完成させたと言われる"兄の"智忠親王の協力もあったと見られ、曼殊院の庭園や建物は「小桂離宮」とも評されています。
★そして、この曼殊院のすぐ北、数百mのところには、ほぼ同じ頃――承応2~4年(1653-55)――に、良尚法親王の従兄弟にあたります後水尾上皇が造営しました修学院離宮があるのです。
※桂離宮や修学院離宮につきましては、また改めて書くこともあるかと思います。今回は、これ以上は書きません。

世が世なら――。
歴史に、「たら」とか「れば」はあり得ませんが……。
もし、歴史の流れが違う方向にいっていたら……。
父である八条宮智仁親王は――。
豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていたと言われます。しかし、秀吉に実子・鶴松が生まれたことで、その話はなくなってしまいました。
ただし、それと同時に秀吉の奏請によって八条宮家を立てています。
その後――。
関ヶ原の戦の後――。
兄の後陽成天皇は、当初の皇位継承者であった実子の良仁親王を廃して、弟の智仁親王に皇位を譲ろうとしました。そこで、徳川家康に譲位を打診しましたが、「智仁親王が、かつて秀吉の猶子であったこと」を理由に実現されませんでした。
※皇位には、良仁親王の弟の政仁親王〈後水尾天皇〉がつくことになりました。

世が世なら――。
良尚法親王は、歴史の表舞台に立っていたかも知れない方なのです。
父・八条宮智仁親王が皇位についていたら、ひょっとしたら……。
そんな、江戸時代はじめの歴史に思いを馳せながら、曼殊院の庭園や建物を見るのも、一興かと思います。
桂離宮や修学院離宮は、事前に申込みをしないと見学できません。しかし、それに近い雰囲気を、ここ曼殊院で味わうことができるかも知れません。
と言うことで、今回の記事を終わらせたいと思います。
さて、もし拝観しなくて、前を素通りする場合――。
曼殊院の前、西側の弁天池の中にあります曼殊院天満宮のまわりの紅葉も美しいです。

最後に、こちら(曼殊院天満宮)の紅葉の写真を載せておきます。
こちらの方は、拝観料は要りませんし、写真を撮る場所の制限もありません。

天満宮と弁天堂の背後の水面は、また別の季節には、キショウブの名所です。
ところで、何故「天満宮か」は、はじめの方のお話で、想像できますね!

本当は、「谷崎潤一郎寄進の半鐘」とか「縁起の良い手水鉢」とか「書院の設え・デザイン」とか、いろんな話を書きたかったのですが――。
それは、皆さま。
こんなオッサンのブログよりも、是非現地でご堪能くださいませ!

今日は、ここまでにします。