――いや、話の流れから言って、明日香村から、飛鳥川沿いを下って来ました。
藤原宮跡のコスモスの花です。

今、一番の見頃でした。
同じ角度の写真ばかりでスミマセン。後ろの丘陵は、香具山です。天香具山、天香久山(あまのかぐやまorあめのかぐやま)と言った方が、いいですか?
畝傍山、耳成山とともに、大和三山と呼ばれます。多武峰から続く尾根の先にあります。
※大和三山の話は、また別の機会にします。

前(飛鳥の回)の話の流れから言うと、「宮処=ミヤコ=都=京」の話題ですね!
7世紀、難波長柄豊崎碕宮、近江大津宮、そして少し前の稿でふれました飛鳥浄御原宮と「ミヤコ」は遷りました。
そして、首都としての機能を持つ恒久的な都が必要な時代を迎えます。

藤原京は――。
あっ、その前に……。
当時、「藤原京」と呼ばれていたわけでは、ありません。『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。その名は、"宮"が『日本書紀』で「藤原宮」と記されていることから、近世以降に学術用語として、つけられたものです。
藤原京は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)まで、持統・文武・元明の3代にわたる「都」でした。中国の都城制に倣って、初めて本格的な都市計画のもとに造営されました。ここでは、「二官八省制」の官庁組織や大宝元年(701)の「大宝律令」の制定によって、国を治めてゆく政治の制度〈律令制度〉が整備されました。
藤原宮は、藤原京の中心部にあたります。現在の【皇居と国会議事堂と霞ヶ関の官庁街】を1ヶ所に集めたようなところです。大きさは、約900m四方、まわりを大垣と濠(ほり)で囲み、各面に3ヶ所ずつ門が置かれました。
中には、天皇の住まいであります内裏、儀式や政治の場であります大極殿と朝堂院、そして役所の建物なとが建ち並びました。
※それなのに、「何故、短命の都だったか?」は、また改めて……。

↑藤原京朝堂院東門跡の再現柱列から、大極殿跡の方を眺めました。
この写真では分かりませんが、後方(北の方)に耳成山があります。
そして、朝堂院跡、大極殿跡です。ただただ広い、藤原宮跡です。↓

近付いて見ると、柱列が再現されているのは、大極殿院の閤門です。その奥では、発掘作業が行われているようでした。

この土盛り(森)が、大極殿跡です。

藤原宮跡は、平城宮跡とともに、歴史的・学術的に貴重な価値を有する重要な遺跡として、昭和27年(1952)に「特別史跡」に指定されています。
藤原宮跡の西側、JAならけん橿原東部経済センターの2階は、橿原市藤原京資料室として開放されています。

藤原京1,000分の1模型(約6×7m)が展示されています。

飛鳥のミヤコは、その地形から考えると、「防衛」を重視した"ミヤコ"のような気がしますが、大和平野(奈良盆地)の中に造られた「新しい都」は、"とにかく広い"と言う感じがします。
ついでと言っては何ですが――。
廊下には、こんなものが、置かれていました。犬養孝先生の万葉歌碑です。

春過ぎて 夏来るらし
白たへの 衣乾したり 天の香久山
持統天皇
このうち歌の解釈については、いろいろ難しい点があるようですので、今日は何も書かないことにします。
飛鳥川沿いを、下って行くと言うことで、おふさ観音にちょっとだけ立ち寄りました。バラのお寺なんですが、今日は「時期が悪かった」です。

昔々、この辺り一帯は、鯉ヶ淵(こいがふち)と言う大きな池でした。土地の娘・おふささんが、池の辺を歩いていると、白い亀の背に乗った観音さまが現れました。そこで、この池にお堂を建て、その観音さまをお祀りしたのが、この寺の始まりだとか……。

「ぼけ封じ」の観音さまです。すでにかなり《進行している》と感じています私にとりましては、是非《信仰しなければならない》観音さまです。
しっかり、たっぷりお祈りして参りました。

なお、おふさ観音では――。
10月19日~11月30日の日程で、「秋のバラまつり」が行われます。この時には、また、きれいな風景が楽しめると思います。
今日は、いい感じで分量が(文章が)少なく、調子が良かったです。毎回、このくらいだと書くのも楽ですし、お読みになられる方も楽ですよね!
飛鳥では、力が入りすぎたかな……。
では、失礼いたします。
また!!!