東大寺戒壇堂の四天王像 ~イケメンの広目天だけでなく……~ | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

春日野園地のことを書いていましたね!

春日野園地を東から西へ流れる吉城川は、東大寺南大門の前を通っています。そして、流れをやや北向きに変えながら、吉城園依水園(ともにきれいなお庭)の辺りへ流れます。
吉城川と平行に、春日野園地の北を流れてきた白蛇川は、南大門の北を通り、やがてその辺り(吉城園依水園辺り)で吉城川に合流します。
当然ながら、東大寺の立地は、東から西へ下る(西から東へ上る)坂の上ですね。


そして、よく見ると――。
東大寺の主要伽藍――二月堂法華堂(三月堂)~三昧堂(四月堂)~鐘楼大仏殿――は、この吉城川の流れる北側を、東(山)から西へ延びる尾根の上に建っていることに気付かれるはずです。

特に、大仏殿の裏(北)に回ると、大仏殿は一段高い尾根の上に建てられていて、今はなき講堂の跡は、低い位置にあることがわかります。その土地の高さの違いに注目です。

以前、何かの稿で、大きな寺院の主要伽藍は、尾根の上に立地しています……と言う旨のことを書かせていただいた気がします。東大寺大仏殿は、正式には、金堂と言います。ご本尊(大仏さま)の居られる重要な金堂は、最も地盤の安定した尾根の上に建てられました。
それに対して、仏に仕える身の僧の集う講堂は、ちょっと低い場所に建てられたのですね。ですから、再建されていないとも言えますが……。


話を少し戻しますが――。
大仏殿前の鏡池からの流れも、やはり大仏殿廻廊の前を西へ流れています。廻廊の西の大仏殿入口、そして、その前の公衆トイレの北西は、やや低く、その流れに沿って谷になっています。谷になっている辺りは、散策するのにちょうどよい広場になっています。そして、目線を上げると、二月堂から大仏殿へと続く尾根が、さらに西へ延び、指図堂勧進所の建物が上に建てられています。

その尾根の西の端に建てられて(乗っている)のが、今日の目的地であります戒壇院です。

大仏殿の入口(西廻廊の辺り)から移動するのには、最短距離で進むと、一度坂を下りて、どこかで坂道か石段を登ることになります。
ちょっと上りがキツい道中ですが、訪れました日には、まだ桜の花がたくさん咲いていました。

近鉄奈良駅から、東大寺大仏殿の方に近付くには、奈良県立美術館の前か奈良県庁の北そして東を通り、国道369号線を渡り、吉城園依水園の前を通って、この戒壇院の下を進むと言うルートもあります。
外国人のグループが、この道でよく来られています。大仏殿の参道を南大門の方から来る方が面白いと思うのですが、たぶんモバイルか何かで最短ルートを探すと、この道になるのでしょう。

しかし、外国人グループは、戒壇院に見向きもされません。外国人向けの旅行ガイドには載ってないのでしょう。
でも、知られたくありません。できたら、静かにゆっくりお参りしたいですから……。

この門から戒壇院へ――。
そして、中の戒壇堂へ――。

戒壇とは、受戒が行われるところです。
東大寺で、戒壇と言うことは……。

天平勝宝6年(754)、鑑真和上が来日し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇光明皇太后孝謙天皇をはじめ、440人余りの人に戒を授けました。そして翌年、東大寺戒壇院が建立されました。創建当初は、金堂、講堂、僧坊など、多くの建物があったそうですが、度重なる火災により、創建時の伽藍は、全て灰塵に帰しました。

この現在の戒壇堂は、享保17年(1732)に建立された建物です。


堂内の写真はありませんが、今回の戒壇堂参詣の目的は、皆さまご存知の通り、奈良を代表する仏像〈仏さま〉にお会いすることです。

その前に、戒壇堂の中央に安置されるのは、木造多宝塔です。こちらも、享保17年(1732)造顕されたものです。そして、その中には、釈迦如来像多宝如来像とが祀られています。この2像は、鑑真和上が唐からお持ちになられたと言う銅像の二仏〈釈迦如来多宝如来〉を模したものです。その銅像の二仏は、東大寺ミュージアムに収められています。常に展示されているかどうかは存じ上げませんが、2年前に釈迦多宝如来坐像として、重要文化財に指定されている貴重なもの、機会があればご覧ください。

これから、やっと本題に入ります。
奈良時代の仏像と言えば――。
大仏さまを代表とする「金銅仏」ですね。他に、法隆寺夢違観音像もおられます。前に書かせていただいた薬師寺東院堂聖観音立像もおられました。

あるいは、奈良時代の仏像と言えば――。
「脱活乾漆像」ですね。「脱活」とは、内部が空洞と言う意味、「乾漆」とは、漆が乾いて固まったと言う意味です。大まかな塑像を造り、その表面を「漆」に浸した「麻布」で包むことを何回も繰り返し造形し、最後に中の塑像を取り除く造像法です。
阿修羅像で勇名な興福寺八部衆像東大寺法華堂不空羂索観音立像が、代表例ですね。

あるいは、奈良時代の仏像と言えば――。
粘土を素材とした「塑像」ですね。
「金銅仏」の原型(蝋型)作りも、「脱活乾漆像」の原形作りも、「塑像」の手法を使って行われますから、ある意味、奈良時代の造仏の基本かも知れません。
以前、新薬師寺十二神将像をご紹介しました。または、法隆寺五重塔塑像群像なども、「塑像」の代表例ですね。

「金銅仏」「脱活乾漆像」「塑像」も、時間と労力とを必要とする造像法です。金や漆は、高価なものでしたから、経済力も必要と言えるかも知れません。まさに奈良時代ならでは、贅沢な造像法ですね!
▲さっき外国人の方には、知らせたくありませんと書きました。ある意味、思うのですが、西洋の方に1,300年前の土をこねた像の有り難さが、通じるのかどうかと……?(それって偏見(!?))

そして、この戒壇堂四天王像は、奈良時代を代表する「塑像」(当然、国宝)です。
また、男前の仏像として有名です。特に、鋭い眼光の広目天像は、ポスターやパンフレット、本の表紙などによく載っている仏さまです。奈良の仏像界のイケメン・モデルの地位を保っておられます。

醜男の代表の私が言うのも何ですが……。
けっして男前とは言えませんが、増長天も、多聞天も、持国天も、鋭い眼光で、個性的で、カッコいい仏さま=四天王です。
見るべき仏像です。
幸いなことに、大仏殿二月堂辺りが観光客で混雑していても、戒壇堂は空いています。好天に恵まれた4月21日のお昼頃、私が訪れました時も、【貸し切り】でした。堂内を何周も回って、カッコいい四天王像を堪能することができました。

大して見るものも無いのに人でごった返す京都と違って、国宝がドンと構えているのに空いている奈良は、だから【大好き】です。


(↑東大寺戒壇堂の拝観パンフレットより)
※一応、参考までに、この四天王像について、簡単に書いておきます。
戒壇院には、元は、銅造の四天王像があったと言われます。残念ながら、現存しません。この塑像の四天王像東大寺中門堂から移されたものと言われます。
法隆寺金堂四天王像當麻寺金堂四天王像などに見られるように、四天王は、仏法の守護神として、飛鳥時代から、わが国において信仰されてきました。そして、その信仰は、奈良時代に最高潮に達します。この戒壇堂四天王像は、天平時代の傑作と言われます。
身につける甲冑は、遠く中央アジアの様式で、奈良時代の国際色豊かな文化を物語るものと言えます。


戒壇堂を出て、再び大仏殿西廻廊大仏殿入口〉を見ると、絶好の位置に句碑が建てられているのが見つかります。大仏殿を見上げる、何とも言えないいい場所です。

覚えておられる方は、どれくらいおられますでしょうか?
このちょっと北に、日本画家の小倉遊亀さん揮毫の万葉歌碑(光明皇后の歌)があったのを……。確か、昨年秋頃の稿だったような気がしますが!
思い出していただいた方、ありがとうございます。

今日、ご紹介します句碑の石には、何とも言えない趣があります。

大仏を  要と月の  東大寺

筒井廬佛(1872-1973)、東大寺長老であられた方の句が刻まれています。戒壇堂のある尾根(台地)の上からは、大仏殿の屋根の上に上る月(満月)を眺めることができそうです。



★★★★★
東大寺に関して――。
NHK・Eテレで、放送中の『趣味どきっ!国宝に会いに行く』は、明日28日(火)の放送で、第5回めを迎えます。
次回の内容は、迫力のリアリティー「東大寺・金剛力士像」です。

東大寺南大門金剛力士像が、主要なテーマです。独特の決めポーズから覇気が漲る、筋骨隆々の肉体美は、どのように生み出されたのか。運慶・快慶による高さ8mに及ぶ巨像に込められた思いとは……?
運慶の像と言えば、興福寺北円堂の弥勒如来像、無著・世親像も登場するそうです。“リアル”な仏像に込められた意味を探ると言う番組になるようです。
楽しみです。