北野天満宮の参道を歩いています ~京都三珍鳥居~ | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

北野天満宮の境内を"散策"と言うことでしたが、今出川通から入ってわずか数十メートルで、ぜんぜん前へ進めてないですね。
いつものことですが!

気を取り直して、今度こそ!
参道を北へ向かって歩み、国宝であります「北野天満宮拝殿・本殿」を目指します。

参道には、鳥居が三つあります。
三つめの鳥居の手前、左手にありますのは、伴氏社(ともうじしゃ)です。伴氏社には、菅原道真公の母君が祀られています。
前回に、東向観音寺にあります五輪塔〈伴氏廟〉を紹介させていただきましたが、それは、ここにあったものを移したものです。

北野天満宮は、明治時代のはじめ、「北野神社」と名を改め、「神社」としてスタートしました。その際、「仏さま」に関わるものが徹底して切り離されました。そこに「神仏分離」の凄まじさを感じます。どこの"社"でも同じようなことが起こっていたと思われます。信仰の場に《このような混乱》をもたらしたとは、いったい何だったのでしょうか……?

熱くなっては、イケマセン!
またもや話が、思いっきり逸れてしまいました。まるで道真公と伴善男の怨霊がのり移ったようですね。
再び、気を取り直して!
話を「伴氏社」に戻りましょう。

この鳥居は、京都三珍鳥居の一つに数えられます、たいへん珍しい鳥居です。
何が珍しいのかと言うと、鳥居中央の額束が島木を貫通して笠木に至っています〈今回の写真ではわかりませんね、現地で見てください。普通の鳥居は、通常は島木の下にあります〉。
あともう一つは鳥居の足元(台石)に蓮弁が刻まれています。

これも、この写真ではわかりませんので、現地で……。でも、長い年月の風化により、かなり見づらくなっています。
鎌倉時代に建てられた、貴重なものです。「天神さん」の日には、お店が並んで見にくい所ですが、参拝される際には、是非ご覧になってください。


折角ですので、他の京都三珍鳥居を見ておきましょう――ついで?――。
一つは、京都御苑内(南西の方)、厳島神社の‘破風形鳥居’です。丸太町通から堺町御門を入ってすぐ左手、旧九条家庭園跡の九条池(or拾翠池)の島の中にあります。
厳島神社と言えば、平清盛が創建した安芸の厳島神社です。清盛が母・祇園女御のために、安芸の厳島神社を摂津国に勧請したました。その神社が、室町時代に京の都に移され――詳しくは略――、江戸時代に、九条道前が、その邸の中(現在地)に移し、同家の鎮守社としました。明治時代になり、九条家は天皇とともに東京に移りましたが、この社はここに残りました。

笠木と島木の曲線が「破風」に似ている事から‘破風形鳥居’とも言います。これも、珍しい形の鳥居です。

「いつくしま」と言えば、「イチキシマ→市杵島姫命」、水の神さまです。そして、仏教の「弁才天」と習合され、本地垂迹において同神とされる仏さまです。
社殿には、美しい「弁天さま」の絵が奉納されています。

ちなみに、京都御苑内では、この厳島神社のすぐ北には市杵島姫命もお祀りされる宗像神社がありますが、今回のテーマではありません。また、改めて……。


もう一つの鳥居は、太秦にある蚕の社〈木嶋神社〉の‘三柱鳥居’です。‘三柱鳥居’は、その名の通り、鳥居を支える柱が三本ある鳥居です。一列に三本ではなく、三方向に面する形、上から見ると三角形になっている鳥居です。ですので、島木・笠木・貫・額束も3組あります。

正しくは「木嶋坐天照御魂神社(このしまにいますあまてらすみたまのかみのやしろ)」と言います。京都盆地を開いた秦氏と関わりの深い社です。拝所から本殿を拝む時、見上げれば北極星が見えますが、その方向に、秦氏の祖先が眠る(墳墓のある)双ヶ丘の一の丘がある、そう言う立地の社です。

今回は、鳥居がテーマですので、この神社について、これ以上詳しくはふれません。

この‘三柱鳥居’は、水の上に建てられる鳥居です。と言うよりも、かつては水の中に建っていました。
拝殿・本殿の左手(西)に、水が湧出し、「元糺の池」と言われる池がありました(す)。その中に、‘三柱鳥居’が建っていたのです。下鴨神社の「糺の森」を連想しますが、秦氏と鴨氏との何らかの関係が想像できます……。

写真は、その「元糺の池」の前の鳥居です。かつては、土用の丑の日に「足つけ神事」がありました。この池に、手足を浸すと病気にならないと言われるものです。子どもの頃は、毎年、夕涼みの行事として
行ったものです。
また、この池は、ザリガニ釣りの場でもありました。今では、水が枯れてしまっているのが、残念でなりません!


思い出に浸っている場合ではありませんでした。
北野天満宮に参拝しているのでした。

三の鳥居を過ぎましょう。
左手に、筆塚が建てられています。

元は御霊としてお祀りされた菅原道真公でしたが、江戸時代になると、手習い(習字)の神として信仰されるようになりました。寺子屋などに「天神さん」の分霊が祀られたり、北野天満宮や各地の天満宮に使い古した筆を供養する筆塚が建てられたりするようになりました。

今では、道真公を御霊としてお参りする人はほとんどいませんよね――いるの?――。「学問の神」として広く信仰されるようになっていますね。
勉強ができすぎて、不相応な出世をしてしまい不幸な最期を迎えることになった方に、‘勉強ができますように’とお願いするのは、ちょっと変な気がしますが……。
――そんなことを気にするのは、変なオッサンだけです!

そのとなりには、「日詣卅五年  神恩如海山」と刻まれた碑も……。

スゴい「信心」ですね。
これくらいお参りすると、多分ご利益があって賢くなるのでしょう。私のように、苦しいときの、都合のいい時だけの、年に数回の神頼みでは、おそらくあまり効果はないでしょう。

 
三つの鳥居をくぐると、北側に堂々とした造りの楼門が見えてきます。
両側には随神〈貴族の護衛に従事した官人〉の像が置かれ、正面には菅原道真公を褒め称える言葉「文道大祖 風月本主」(ぶんどうのたいそ  ふうげつのほんしゅ)の額が掲げられています。
平安時代、ちょうど北野社が創建された頃の学者で歌人の大江匡衡の願文の言葉です。



そう言えば、鳥居で思い出しましたが……。
一の鳥居の近くで、またコメントしますね――と書いておりましたね。
せっかく楼門から、「国宝の拝殿・本殿」に近づこうとしているところですが、また【ふりだし】に戻ります。

今出川通に面して建つ一の鳥居の西に、次のような灯籠を見つけることができます。

江戸の町火消・新門辰五郎の寄進の常夜燈です。
中央に「奉納常夜燈」とあり、下部には「江戸消防方新門辰五郎……(以下略)……」、右面に「元治二年……」と刻さまれています。

一橋(徳川)慶喜は、文久2年(1862)の上洛に続いて、元治元年(1864)に禁裏御守衛総督に任ぜられ、再び上洛しました。その時、辰五郎は多くの子分を率いて、上洛しました。 京都では、上洛中の慶喜の身辺警護や二条城の防火・警固にあたったそうです。この常夜燈は、この頃に寄進されたものと言われています。
実は、新門辰五郎の娘は、一橋(徳川)慶喜の妾となっていたそうです。

江戸から、会津から、薩摩から、土佐から、長州から……。
この頃、日本国中から、多くの人が集まって来て、喧嘩だの、斬り合いだの、戦だの、火事だの、散々掻き回しておいて、最後には、天皇も公家もみんな出ていくはめになってしまうなんて……。
京都人にとっては「迷惑な話」です。

新門辰五郎の常夜燈の横には、さらに古そうな灯籠(道しるべ)も、建てられています。

「寛政二年」とありますから、1790年のものですね。何気なく見過ごしてしまう石造物ですが、200年以上、よく残っていますね!


次回こそ、先に進みたいと思います。
では、また!