史跡・御土居のことを考えます その2 +今夜のTV番組から | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

史跡・御土居について、時々続編をお伝えしようと思います。
今回は、特に詳しい内容はありません。

前回に、加茂川中学校北側の御土居を紹介し、そこが北端であることを書かせていただきました。

そこから賀茂川(鴨川)右岸に、南西の方向に御土居御は築かれました。
賀茂川(鴨川)右岸「史跡・御土居」は、もうちょっと下らないと見学できません。それは、また、何時か……。

今回から、しばらくは、『ブラタモリ』でロケが行われた御土居〈北区大宮土居町、玄琢下〉から、前回とは反対方向に見ていきたいと思っています。
そこ――『ブラタモリ』のロケ地――から西〈正確には'西南西'〉にあるのが、下の写真の御土居です。北大路鷹峯旧土居町にある「史跡・御土居」です。'しょうざんリゾート'の玄関の南にあります。
前回に紹介しました3ヶ所と'ここ'とは、ほぼ一直線に並んでいます。

御土居の門(切れ目)と言いましょうか?
洛中への入口と言いましょうか?
京(洛中)につながる街道の出入口は、俗に「京の七口」と称されました。
この辺りに、そのうちの一つ「長坂口」がありました。

この前の道は、鷹峯街道〈京都府道31号西陣杉坂線〉と言われます。
※また機会があれば、この先の「京見峠」をレポートさせていただきます。

鷹峯から、杉坂、小野郷、周山を経て、丹波方面に至る丹波街道の登り口になります。古くからこの地には、関所が設けられました。また、江戸時代になっても重要視される場所でした。
今は、JR嵯峨野線・山陰線、国道9号線・27号線、京都縦貫自動車道などの交通網の発達により、丹波方面、丹後・若狭方面へは、もっと西の方から京都市を出ることが主流(ほぼ100%)ですが……。
考えてみれば、京(洛中)からまっすぐ北上するこちらの道の方が、距離は短くなりますね!

ここで、御土居は折れ曲がり、南の方向につながっていきます。

ここから御土居は、紙屋川沿いに築かれています。
ちょうど佛教大学の北西になります。住宅街の中に、御土居が一部残されて公園〈いこいの広場〉になっています。住所は、北区鷹峯旧土居町、上の写真の御土居と同じです。

上から見下ろすと、紙屋川の流れが見えます。この辺りだと、かなりの高低差があります。
下から見上げても、かなりの高さがあることがわかります。

この辺りから、「史跡・御土居」は住宅地の中に残されています。と言うよりも、御土居の上に、または御土居を取り壊して、住宅が建ってきました。
住宅地やその回りの道路をよく見ると、御土居の地形を利用した宅地の流れ、道路の向きになっていることがわかります。あまり個人の家を写真で撮るのは良くない気がしましたので、今回はありません――うまい角度の写真が撮れなかったこともありますが――。また、別の場所で挑戦したいと思います。

すぐ北は、やはり'しょうざんリゾート'の敷地(駐車場)になります。

その次です。
紙屋川沿いに南へ、北大路通りを渡り、住宅地の中を探します。

住宅前にポツンと小さな土盛りが見えます。造成地に残土を盛っただけと言う感じです。とても歴史ある物だとは、気がつきません。「史跡・御土居」の石標だけが、その"しるし"です。
ここも、近くに流れる紙屋川が、見つけるヒントになります。住宅街の流れも参考になります。近くには、お土居○○ションなどの建物もあるみたいなので、それも見つける手がかりになります。

すぐ近くには、こんな住所表示が……。
ここは、北区紫野西土居町に残る「史跡・御土居」です。

次は、少し南へ……。



★★★
今回の内容とは関係ありませんが……。
今夜放送の『美の巨人たち』(テレビ東京系・こちらではテレビ大阪)では、酒井抱一作『風神雷神図屏風』が取り上げられます。同じ構図の絵を、そのおよそ200年前に俵屋宗達が、およそ100年前に尾形光琳が描いているのです。直接の教えによって受け継がれたのではなく、私淑により描画の技法が引き継がれ、発展していった琳派の不思議について考えることができます。楽しみです。
京都に居て、しかも「琳派400年」で盛り上がっている中で、江戸琳派を礼賛するのは、形見の狭い思いなのですが……。
その上、今回の記事の地は、400年前に"琳派"が発祥した'鷹峯'です!
※今日(7日)のTV番組(『美の巨人たち』)を見落とした方は、3月11日BSジャパンでどうぞ――。