歌碑・文学碑巡り 奈良 唐招提寺 のオマケ編 | あべしんのブログ

あべしんのブログ

京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

唐招提寺の伽藍は、また季節を変えて、花の美しいときか、行事・法会のあるときに訪れたいと思います。


一つ撮り忘れた写真があります。
會津八一の歌碑の西にある「松瀬青々の句碑」です。このシリーズの続編を書かせていただく時に、お伝えしたいと思います。
とりあえず、句だけ――。

門を入れば  両に稲田や  招提寺

※松瀬青々の句については、京都嵯峨嵐山の大悲閣千光寺への道筋、奈良ならまちの十輪院で、2句すでに紹介済みです。


唐招提寺を出た後、近鉄西ノ京駅の方に戻るのが通常のルートです。薬師寺も合わせて回るのが普通です。
が……。

今回は、唐招提寺の門前を西へ、近鉄電車の踏切を越え、線路沿いに北へ、尼ヶ辻駅の方へ向かいたいと思います。

左手前方――唐招提寺の北西ですが――、
満々と水を湛えた周濠の中に、浮かぶように小高い丘=前方後円墳 が見えます。
宝来山古墳(ほうらいやまこふん)です。
5世紀前半の古墳とされています。全長227mの大型の前方後円墳です。これは、全国の古墳の中で、20番目の大きさです。
宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらふしみのひがしのみささぎ)」として、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)のに治定されています。

大きな古墳は、大きすぎて、近くからではなかなかその形を実感することが難しいのですが、この「宝来山古墳=菅原伏見東陵」は、まわりに山や他の古墳や大きな建物がないので、離れたら所からでも、その概容を見ることができます。

垂仁天皇は、『記紀』では「いくめいりびこいさちのみこと」と称されます。崇神天皇の第3皇子。崇神天皇は、「はつくにしらすすめらみこと」または「みまきいりひこ」と称される大王であることから、実在の可能性が考えられる初代天皇と言われています。
『記紀』では、この父子のお二人の天皇ともども、おもしろい話がたくさんあるのですが、それは折に触れて、これから機会があれば、紹介したいと思います。

今回は、一つだけ――。
上の写真の右の方、周濠の中に浮かんでいる島が見えます。垂仁天皇の臣下である・田道間守命(たじまもりのみこと)の墓という伝説があります、いわゆる陪塚(ばいちょう)です。陪塚とは、主人の墓に伴う従者の墓です。

田道間守とは――。
『記紀』の中の伝説上の人物です。
垂仁天皇の時代に、天皇の命で、非時香菓(ときじくのかぐのみ) を求めるために、常世の国 (とこよのくに) へ派遣されました。
10年後に非時香菓を持って帰国しましたが,天皇はすでに亡くなっていました。天皇の陵のそばで嘆き悲しんで自ら命を絶ったと伝わります。
非時香菓とは、「時期ではないのに香りたかく実る果実」のことです。『記紀』では、「(たちばな)」と見なされています。今の'橙'あるいは'蜜柑'かと思われます。常世国の非時香菓は、「不老長生を与える」のですが、それを待っていた天皇はわずかの時差で亡くなられ、永遠の生を得ることはできませんでした。


宝来山古墳の東、近鉄電車の線路沿いには、が育てられています。
「ならプロジェクト推進協議会」によるものです。『記紀』に伝わる歴史ある「大和」で「街道」を興こし、ブランド化していこうと、「大和」を植樹、育成、収穫しようとされているものです。地域を活性化し、奈良ブランドとして全国へと発信されようとしての取り組みです。

少し歩いて、尼ヶ辻駅から電車に乗ります。次の目的地へGO!


★こぼれ話Ⅰ
「前方後円墳」、上空から見ると、○と□がくっついた形になっていますが、その墳墓を築いた当時の人たちは、前が□で後ろが○と考えていたかどうかはわかりません。それどころか「前方後円」のネーミングも、江戸時代の国学者・蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使った単語です。まさか、5世紀の人たちが「さぁ、"前方後円墳"を築こう!」なんで言っていたとは、まさか思ってなんかいないでしょうね✨
1昨年の暮れ〈およそ1年ちょっと前〉、堺市を訪れた時に、「前方後円墳」のことを、英語で紹介するのに、"a keyhole-shaped burial mound"と言うことを知りました。または、"a keyhole-shaped tumulus"でもいいですね✨
○や□にこだわる必要はありません。目からウロコです!――まあ今どき、'キーホール'も、レトロですけど。

★こぼれ話Ⅱ
「垂仁天皇」とお呼びする、その名(呼び方)を、漢風諡号(かんふうしごう)と言います。皇帝、あるいは貴人の死後に、生前の事績に基づいて奉る名前のことです。「諡」の訓読み"おくりな"は「贈り名」を意味します。
天皇の諡〈おくりな〉は崩御の後に奉るもので、生前に諡で呼ばれることはありません。たとえば、「天智天皇」は、ご自身のことを「天智天皇」と名乗っていたわけではありません。
ただ、後醍醐天皇の場合のみ例外で、醍醐天皇のいわゆる"延喜の治"を再興しようという思いから、自ら生前に「後醍醐」と諡を指定されていました。それでも、生前に「後醍醐天皇」と呼ばれることはなかったはずです。
「○○天皇」という諡が定着したのは奈良時代からです。聖武天皇が初めての例です。神武天皇から元正天皇までは、奈良時代になってからの諡です。それ以前は「○○みこと(女帝の場合は○○ひめのみこと)」と呼ばれていました。漢風諡号は文字通り中国からの輸入制度なのです。
奈良時代に、神武天皇から元正天皇の漢風諡号を一括して奉られたのが、この制度のはじまりです。一括してお名前を撰んだのは博識で知られた淡海三船〈大友親王の曾孫〉です。
歴史上、「垂仁天皇」に該当する大王がおられたとしても、ご自分のことを「垂仁天皇」と名乗っていたわけでも、そう呼ばれていたわけでもありません。そう考えると、「仁徳天皇は○○しました」なんて書いてあるものを読むのは、'何か変'ですよね✨

★こぼれ話Ⅲ
すでにお気づきかと思いますが、宝来山古墳のあるこの地は、菅原と言います。このすぐ北には、「てんじんさん」の記事で少しふれました「菅原天満宮(菅原神社)」があります。菅原氏は、土師氏から分かれました。土師氏とは、「負名氏(なおいのうじ)」です。元々、陵墓の造営や埴輪の製作など朝廷の葬送儀礼に従事した家系でした。
そこで思い出されるのが、土師氏の祖とされる「X(今は名前を伏せておきます)」と垂仁天皇との関係。『日本書紀』に書かれているある事件です。垂仁天皇と菅原氏は、関係があったのですね。
この事件については、ずっと先に、また別の場所で……。

本日は、ここまで❗