京の冬の旅より~東福寺・方丈&龍吟庵③~ | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
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重森三玲(1896-1975)は、造園家であり、造園史研究家でもあります。日本の伝統文化に関心を抱かれ、茶道、生け花、庭園の研究と実践に取り組まれました。日本の古庭園を実測・調査され、『日本庭園史図鑑』や『日本庭園史大系』(=「図鑑」の改訂版)を刊行されました。

『日本造園史大系』の「現代の庭~東福寺方丈庭園」の中で、この「八相の庭」作庭の経緯について詳しく述べられています。
「本庭の主石に当たる十八尺の長石三本を……丹波大井村南方に探しにゆく……」
「白河砂トラック七台を運んで庭に入れた」
「……南庭の砂紋を入れる。平安期大和絵に出てくる網代波の砂紋……」
など、作庭にあたっての面白い話が、いろいろ出てきます。
‘市松模様’や‘北斗七星の石組’を取り入れられた経緯などの話も出てきます。


重森三玲が、作庭に取り組まれるようになるのは、昭和7年(1932)に京都林泉協会の設立に加わられた時からだと言われます。冒頭に生年をあげましたので、計算すると30歳代後半になります。
東福寺方丈は、明治14年(1881)の火災で焼失、明治23年(1890)に再建されました。
「八相の庭」の作庭は、昭和14年(1939)になされました。重森三玲40歳代、作庭に取り組むようになられてから数年のことです。ですから、この「八相の庭」は、重森三玲初期のものということができます。それは戦前のこと。その時期に、これだけ抽象的で斬新な作庭をされたのは、素直に'スゴイ'と思います。

前回、"龍吟庵方丈の作庭が昭和39年ということを覚えておいてください"と書きました。重森三玲60歳代後半、70歳前のことになります。その年齢で、あれだけ大胆で自由な発想は素晴らしいです。こちらは、重森三玲後期の作庭ということになります。そういう観点で、これらの庭を見比べるのも面白いと思います。


こちらは、西庭です。さつきの刈り込みと砂地とを、かずら石で方形に区切り、大きく市松模様にデザインされています。「井田(せいでん)市松」と呼ばれます。
写真右上の方に見えるのは、紅葉の名所・通天橋です。


次は、北庭。苔の緑との対比も色鮮やかに、市松模様に敷石が敷かれます。さつきの丸い刈り込みとの調和の妙が印象深く、彫刻家・イサム・ノグチは「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評しました。
秋には、背景の紅葉や唐楓の黄葉と合わさって、見事な景色となります。
この北庭から見た通天橋の紅葉もいいものです。東福寺の紅葉を楽しむのには、通天橋・開山堂に入らずに、この方丈庭園に入って通天橋の方を眺めるのもいいものです〈多分こっちからの方がゆっくり見られますし……〉。


方丈の東から、三の橋川の谷を挟んで龍吟庵が見えます。こちら側も、紅葉の時期は美しいです。


最後のお庭です。雲模様地割に円柱の石で北斗七星を構成し、「北斗の庭」と呼ばれます。後方には、天の川を表した生垣がた配されます。



先程、明治14年の火災の話をしましたが、東福寺には、火災を免れた建物もいくつか残ります。
国宝・三門もそうです。三門の東西には、禅宗伽藍で現存最古の浴室と、現存唯一の室町時代の室町時代の東司(とうす)という貴重な遺構が残ります。どちらも、非公開(外観は見られます)ですが、重要文化財です。


上の写真は、東司〈厠=トイレ〉です。‘百雪隠’とか‘百間便所’などと呼ばれました。浴室東司も、私語厳禁の修行の場。僧侶たちは、経を唱えながら、決められた作法で黙々と行に取り組みました。
実は、この東司の柱石の余材が、方丈の庭の「北斗七星」に見立てた石に使われました。

こちらも重要文化財の禅室(僧堂)です。


紅葉のシーズンに人で溢れる東福寺ですが、オフシーズンにゆっくり訪れるのも、いいものです。

「京の冬の旅」での龍吟庵の特別公開は、3月10日(火)までですが、例年行われる「涅槃会の特別公開」でも、龍吟庵は拝観できます。3月14日(土)から16日(月)の間です。この日は、本堂内も無料公開で、明兆の「大涅槃図」を見ることができます。国宝・三門も特別公開されます。この時に訪れるのも、いいかも――!