歌碑・文学碑巡り 京都松原通烏丸周辺を歩く その3 | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

烏丸通松原の交差点、南東の「俊成社」を見た後、松原通を東の方に歩きました。

今度は、松原通烏丸交差点から、松原通を西へ進みたいと思います。すぐ左手(南側)に小さな社を見つけることができます。新(にい)玉津島神社です。


話は、またまたそれますが――。
紀貫之は、『古今和歌集』の「仮名序」の中で、「小野小町は古の衣通姫〈そとおりひめ〉の流なり。あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」と述べています。
現代の私たちが持つ「小野小町像」自体が、ほぼ(99%)伝説です。その小野小町に、さらに伝説上の衣通姫を被せると、《絶世の美人、類いまれなる和歌の名手、悲しい恋……》のようなイメージとなるのでしょうか✨
紀貫之は、《女心を歌わせたら、どちらも素晴らしい》と評しています。

衣通姫は、伝説上の女性。「その容姿の美しさが衣を通して光り輝いた」という意味の名前です――これを読みながら自分のことだとお思いの方もおられますが――。『古事記』と『日本書紀』では、設定が異なりますが、どちらも悲恋に終わっています――美人の運命は儚いものでしょうか――。
住吉明神、柿本人麻呂とならび、「和歌の神さま(和歌三神)」として、紀伊の国の玉津島神社に祀られます。

前々回に、この辺りに歌人・藤原俊成の邸があったという話をしました。この社は、藤原俊成が、文治2年(1186)に、「和歌の神さま=衣通姫命を玉津島神社から自分の邸内に勧請した神社だと言われています。
※別説に、新玉津島神社に衣通姫命を勧請したのは、鎌倉時代から室町時代にかけての歌人・頓阿だと言う説もあります。

鎌倉時代には、ここに「和歌所」が置かれたり、室町時代には、足利将軍家の庇護の元で和歌の聖地と崇められたりしました。
その社殿は、応仁・文明の乱で焼失します。しかし、江戸時代に再興されます。それに一役買ったのが、国文学者北村季吟(1625-1705)です。

北村季吟と言えば、松尾芭蕉の師。このブログでは、「滋賀県野洲市の祇王伝説の句碑」「地主神社の句碑」ですでに2度登場ですね!
北村季吟は、およそ7年間、この神社の宮司として住み、「万葉集の注釈書」の編纂に取り組まれたりしています。

(松原通に面して、「北村季吟先生遺蹟」の石碑が建っています。↓)


小さな社ですが、これらの由縁から、俳句や短歌を嗜む人、文章上達を願う人がお詣りに来られています。


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松原通りをさらに西へ。西洞院通の交差点まで進みます。
「五條天神宮」とあります。


「天神宮」と言っても、菅原道真公とは関係ありません。その創始は、菅原道真公が神さまとされる以前、いやいや道真公が生まれるよりもっと前のことですから!
※境内には、‘京都市’のものと‘松原京極郷土史会’のものの2枚の案内の木札があり、後者には「六角堂とともに平安遷都以前から社地を一度も変えていない……」と言う記述があります。以下の創建に関する記述は‘京都市’のものによります。

延暦13年(794)、平安京遷都の際、桓武天皇が空海に命じて、大和国宇陀郡から天神を勧請したのが始まりと言われます。はじめは「天使の宮(天使社)」と称していましたが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めたそうです。


現在はこじんまりとした境内ですが、洛中最古の社として、中世には相当広い鎮守の森を有していたそうです。
※豊臣秀吉は、洛中大改造で南北の通りを作り(増やし)ました。この辺りでは、西洞院通の1本西の東中筋通がそれに当たります。この道は、五條天神宮(天使社)の境内を突き抜ける道であったので、町の人は、批判の意を込めてその道を「天使突抜」と呼びました。今も、地名としてその名は残っています。


さて、平安時代終わりには、この鎮守の森で「源義経弁慶が出会った」とされます。

まず、「源義経(牛若丸)弁慶」の様々な話は、ほとんど(すべてに近いくらい)‘ファンタジー’or‘伝説’or‘フィクション’or‘おとぎ話’と私は思っていますので、以下の話は気楽に読んでいただければいいです。

市内、五条通を東に行くと、五条大橋があり鴨川を渡ります。橋の手前、道路中央のグリーンベルトに、下の写真の可愛らしい石像が建てられています(昭和36年のものです)。

「五条大橋だから、牛若丸弁慶」とは何と安直な!!!!!
時々、京都の史跡には、このような"パッチもん"が紛れ込んでいます。本当の京都人なら見向きもしません。遠方から観光に来られる皆さまは、くれぐれもご注意ください。私のような"パッチもん"の京都人だけが、嬉しがって、こんな写真を撮ります。

現在の五条通は、広く大きな幹線道路となっています。西の方は国道9号線、東の方は国道1号線ですから……。でも、それは、戦時中に戦火の被害を小さくするために拡張されたからで、元々はこの道路は狭かったそうです。
そして、この現在の五条通は、元の平安京では、六条坊門小路に当たります。と言うことは、義経弁慶が"仮に五条で出会ったのが本当"だとしても、ここは絶対あり得ないということです。

豊臣秀吉が、伏見と洛中を結ぶ道の利便性向上のため、あるいは方広寺大仏殿を建てるために、五条通を六条坊門小路に移し替え、架橋したのが、この五条の大橋です。元の(当時の)五条大路は、今の松原通に当たります。
と言うことは、今の松原橋が、「義経弁慶の出会い場所」と考えられます。しかし、平安時代、暴れ川と言われた鴨川に橋が架かっていたことは、考えにくいのです。中州や浮き島あるいは船に板を渡したような簡易な橋はあったかも知れませんが……〈どこかの回で、今は秘密にしている鴨川の橋がありますが、それは場所が離れています〉。

室町時代の『義経記』によりますと――、
6月のある夜、洛中で999本の刀を奪ってきた弁慶が、千本目に良い刀が手に入るよう五條天使社に祈願しました。そこに、義経が笛を吹きながらやって来ます。二人は、この鎮守の森の椋の木の下で出会ったのです。弁慶は、義経の刀を奪おうと勝負を挑みますが、義経はかわします。この夜は引き分け、二人は翌日、五条大路(今の松原通)を東に行った清水寺で再び対決します。ここで、義経が勝ち、弁慶主従の誓いをしたのでした。

この『義経記』が元になり、御伽草子『橋弁慶』が成立します。そこで、二人の戦いの場が、「五条の橋の上」となるのです。
京都市内は、北から南へ低くなります。平安京内は、北から南へ幾つかの川が流れていました。この西洞院通には西洞院川が流れていました。すぐ西の堀川も同様です。そして、当然、洛中の大路でしたから、橋も架かっていたでしょう。
"もし義経弁慶が「五条の橋の上」で出会っていた"としたら、ここ西洞院川か堀川に架かる橋が有力な候補地でしょう!
〈橋の上の出会いが事実としたら〉ですが。


話を、五條天神宮に戻します。
創建の頃の鎮守の森は広く、社殿も広壮であったようですが、応仁・文明の乱をはじめとして、度重なる火災により、小さくなっていったようです。元治元年(1864)のいわゆる「蛤御門の変」で焼失しました。その後再建された現在の社殿は、近年のものです。


また、節分の日には、日本最古宝船の図〈デザイン〉と言われる「嘉賀美能加和宝船」が、授与されます。多くの厄除け祈願の参詣者を集めます。

ご祭神は、少彦名命(すくなびこなのみこと)と大己貴命(おほなむちのみこと)、そして天照大神です――少彦名命と大己貴命の二神は、先日に記事にしました漢國神社のご祭神でしたね――。
少彦名命は、神皇産霊神(高皇産霊神)の子とされる神。『古事記』によると、大国主命の国づくりに際し、天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って波間より来訪し、大己貴命の命により協力をした神さまです。
国土の山や丘をつくり、命名した神さまで、その後、常世国へ渡り去りました。国づくりの協力神、常世の神の他、医薬、温泉、禁厭(まじない)、酒造など様々な性質を持つ神さまです。

少彦名命をお祀りしていると言うことは、農耕、医薬の神さまとして、古くから崇敬を集めてきたのです。全国各地には、医薬関係の方の信仰を集める少彦名命を祭神とする社はたくさんあります。

その代表は、大阪市、道修町の神農さんこと少彦名神社ですね✨
北浜と淀屋橋の間の辺り――またいつか訪れましょう――には、豊臣秀吉が大坂の町をつくった頃、薬取引の場として、薬種業者が集まりました。江戸時代、幕府はこの道修町の薬問屋124軒を株仲間として、薬販売の特権を与えました。
安永9年(1780)、道修町の薬問屋仲間(講)が、薬の安全と薬業者の繁栄を願って、京都の五條天神宮より少彦名命の分霊を、神農炎帝(中国の医薬の神)とともに会所に祀ったのが起源です。

今では、道修町の神農さんの方が有名になったようですが、ご本家は五條天神宮です。


気がつけば、またまた相当長い回になっていますね!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。今日は、この辺で✨
いいや、今年はこの辺で!!!

皆さま、良いお年を❗

数日、投稿をお休みすると思います。再開しましたら、またよろしくお願いします。