石山寺縁起絵巻 ~石山寺のこと④~ | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

石山寺について、続きを……。

現在の東大門(重要文化財)がいつから建っているかは不明だそうですが、おそらく鎌倉時代初めに源頼朝が多宝塔など堂宇を寄進した時からの物と言われています。ただし、淀殿の慶長期の修理で、改築に近い工事がなされているだろうとのことです。
※淀殿の慶長期の修理については、次回、本堂のところでもう少し書く予定です。

慶長期の修理以前の東大門の様子が、『石山寺縁起絵巻』に描かれているそうです。


ここで、石山寺境内を歩かれる際の参考までに……。
もちろん、寺(山)の中を自由に散策していいのですが、少しずつ、ゆっくり見て回りたい場合、助けになる案内板があります。下の写真の中央やや下を見てください。

これは、『石山寺縁起絵巻』(重要文化財)の絵を示しながら、各場所を解説してある案内板です。まだ新しいので、きれいで見やすいです。是非、散策・参拝の参考にしてください。境内、いろいろな所にあります。

『石山寺縁起絵巻』は、良弁による開基、宇多天皇らの参詣、源氏物語の構想を練る紫式部といった、創建からここ石山寺で起こった様々な出来事を描いた絵巻です。霊験譚33話が全七巻に描かれてかいます。中世の生活や交通などを知る上での貴重な史料ですが、絵も日本画を代表する作者によるとされています。

この絵巻は、鎌倉時代終わりから江戸時代後期にかけて《約500年にわたって》描かれ続けられた、ある意味〈超大作〉です。

巻一、二、三は、鎌倉時代終わり頃、高階隆兼が描いたと言われています。高階隆兼は中世「大和絵」を代表する御所絵師。『春日権現記絵』の作者です。『春日権現記絵』は、大和絵の社寺縁起絵巻の代表作、中世の貴重な史料と言われています。――ここでは、詳細はなし、我慢します。また先に進めませんので、――

巻四は、室町時代に、土佐光信が描いたとされますが、正確には不明です。ただ、土佐派の有力な絵師によることは確かなようです。土佐光信は、室町時代後半の大和絵・土佐派の代表者。
なお、巻四の詞書は、三条西実隆とされています。三条西実隆は、室町時代を代表する文化人としてどこかで書いたような……。
巻五については、作者は不明です。

巻六と七は、江戸時代に、谷文晁が描きました。谷文晁は、江戸時代後期の関東画壇の実力者。この2巻が欠けていたのを、当時の江戸幕府の実力者、八代将軍吉宗の孫の松平定信の命を受けて補作しました。文晁は、定信が白川藩主時代に、絵師として仕えていたのです。
およそ1年前、東京のサントリー美術館で「谷文晁展」があったので、関東の方はたくさんご覧になられたと思います。

門をくぐると、両側に塔頭があり、真っ直ぐに参道が伸びています。

ここは、無料ゾーンです。紅葉のシーズン【11月15日~30日】の夕方、ライトアップが行われるそうです。
※なお、紅葉期の週末は、山上の有料ゾーンもライトアップされ、本堂では「狂言の上演」が催されます。


志納所で入山料を払って、入ってすぐのところ(左手前方)に、島崎藤村が止宿した密蔵院があります。入れませんが、外からそっと覗きます。

ちょっとしんどいですか、頑張って石段を登り、本堂を目指します。途中、本堂の下に、観音堂、毘沙門堂、御影堂、蓮如堂などがありますが、帰りにちょっとだけ触れます。もし、これから行かれる場合は、その時詳しく見てください。
珪灰石のかたまりについても、前に触れましたので、ここでは省略です。
――無責任なブログです。――


石山寺の開基のところで書きましたが、石の上に如意輪観音像をお祀りしたのがこの寺の始まり、その後、像を覆うお堂が建てられました。その初めの本堂については、詳しいことはわかりません。しかし、承歴2年(1078)に火災で焼失しています。
紫式部が『源氏物語』を執筆してから後の出来事なので、本当のところ、紫式部がどこで何をしたかは、わかりません。人形があっても……(以下省略)。

現在の本堂は、永長元年(1096)再建のものです。ただし、観音さまを祀る‘正堂’の部分です。上の写真の「唐破風の屋根と火燈窓のある」合いの間=源氏の間として紫式部の人形がある所より右の部分です。見上げれば、屋根が継いであるので、別の建物であることがわかります。
合いの間とさらにその外側(左手)の舞台の部分は、慶長7年(1602)に淀殿が寄進して建てられたものです。

長くなりました。続きは次回に……。