あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

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皆さま、こんにちは。

今、4冊ほど、新たに本を購入し、読んでいます。

せっかくなので、暇な時に、ちょっとずつ紹介していきたいとおもいます。


さて──。


2ヶ月前の記事で、京都原爆投下の目標になったことに関する米軍の動きについて、時系列で、こう(↓)書きました。

※一部改めて、抜粋


昭和20年(1945)

5月11日 原爆を投下する目標となる日本の都市として、京都広島、横浜、小倉がリストアップされました。
6月14日 京都広島、新潟に対し、空襲が禁止されました(原爆の効果を正確に測定するため)
6月26日 西陣空襲。死者43人、重軽傷者66人、全半壊建物292棟。


そこで──。

空襲が禁止されたにも関わらず、何故、西陣空襲は起こってしまったのか疑問?

──と書いていたのですが、それが判る記事が、先週(10月4日)、地元紙(京都新聞)の1面に載っていました。

(切り抜いたものをコピーして、さらに写真を撮ったので、少し不鮮明です。)


(見出し)

109人死傷 292棟損壊

西陣空襲 米軍の克明記録

元東山区長が新事実発見

B29、名古屋爆撃できず京へ

昭和20年(1945)6月、京都市上京区の住宅密集地が爆撃された西陣空襲についてです。京都の空襲について研究なさっておられる元東山区長の伊藤忠夫さん(72)=左京区=が、当時の「米軍報告書」を発見されて、本を出されました。
これまでは投下された爆弾の種類や数、目的を巡り諸説ありました。しかし、「報告書」により、名古屋の軍需工場を空襲する予定だったB29のうちの1機が、何らかのエラーで、京都西陣爆弾を落としたようですね!

どうやら──。
名古屋空襲のおつり
だったみたいです。

詳しく知りたいと思わず購入してしまいました。

『京都空襲─8888フライト─』(京都新聞出版センター、著者:伊藤忠夫)
“8888”は、アメリカ空軍の「報告書」の中に記載された(書き加えられた)「試験的、特別、その他」を示す任務のことのようです。読み進めていくうちに、それが解き明かされ、爆撃(空襲)が、どのような意図で、どのように実行されたかが、判っていきます。

GHQ関連の戦略爆撃調査団資料について、アメリカの国立国会図書館や米国国立公文書館が公開に応じているようです。

「航空攻撃報告書」「爆撃行動報告書」「作戦任務報告書」などから──。
馬町空襲(1月16日)、太秦空襲、西陣空襲舞鶴海軍工廠空襲大津東レ空襲について、その詳細を知ることができました。
のみならず──。
東京、名古屋、大阪の大空襲やその他の都市の空襲について、どのような考え方でどのように進行していたのかが、記されています。

馬町空襲は──。
名古屋地域への爆撃に備えた気象観測、乗員の夜間の長距離航法や機器操作の習熟をはじめとした様々な調査が進行する中で起こってしまった事故のようです。「偵察の犠牲」になったと、表現されていました。

西陣空襲については──。
名古屋の愛知航空機永徳工場を爆撃した爆撃隊(67機)のうち、第1目標に投下したのは50機で、残りのうちの14機が、西陣を含む他の場所へ自らの判断で投下したようです(西陣へ投下したのは1機)。
初めに書きましたように、これは「名古屋空襲のおつり」ですね!
何べんもいいますが、この時点で、原爆投下目標として京都が候補地になっていて、京都への攻撃は禁止されていました。なので、何とも“迷惑な話”です。気象状況か機器の故障か、どんなエラーが起こったかは、今となっては知り得ませんけど・・。
(原爆投下が実際に起こっていたら、さらに迷惑な話ですが・・。実際に原爆投下されていたら、今の京都の姿も“私も”存在しません。)

その他にも──。
宇治市でも、宇治火薬製造所(黄檗)や宇治水力発電所などが、攻撃目標となっていたようです。あの大伽藍やあの(硬貨の)世界遺産も、危なかったのですね・・。

そして、最後に──。
舞鶴空襲(7月24日)や大津空襲(7月29日)は、原爆投下の候補地としては挙げられた京都を想定して行われた、原爆模擬爆弾投下だったと考えられています。
米軍は、本気だったようですよ!!

そう言えば、以前──。
東レ工場に落とされたパンプキン爆弾(原爆模擬爆弾)の実物大模型が、大津市歴史博物館で展示されていたのを、紹介しましたよね!(再び掲載↓)
写真資料も豊富で、戦中や戦後間もなくの京都の様子がよく分かって、面白かったです。「一家に一冊」の保存版です。

それにしても、アメリカさん。
都合の悪い内容もあったのに、よく公開に応じてくださいましたよね!
さすがは、先進国。
本邦なら、ほとんど黒塗りの“のり弁当”が帰って来ますから・・。
いやいや、戦争が終わった時(敗戦時)に、都合の悪い文書は焼却・破棄したことは有名です!