さて、そろそろ史跡巡りの記録でも・・・。
9月21日(土)。
三連休初日。
お墓参りに行ったあと、史跡巡りに行ってきました。
一番最初に行ったのは、俊太郎さまの住居跡。


元々は近江出身の俊太郎さま。
お父様が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住。
尊王攘夷派の梅田雲浜(うめだ うんびん)に弟子入りしたものの
安政の大獄により、恩師を失い、幕府に強い恨みを持っていました。
その後、この住居跡でもある枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門と名乗ります。
同じく尊王攘夷派の志士と交流し
有栖川宮との間をつなぐなど長州間者のパイプ役として
情報活動と武器調達にあたります。
(俊太郎さまが京なまりの言葉が話せたのも大きな要因だったとか)
そして、「壬生浪士組」が「新選組」の名前を
もらうきっかけになった
八月十八日の政変により
長州人は京を追い出されてしまいます。
京への出入りを禁止された長州人は
京に出入りするためには「潜伏」という形を取らねばならず
その宿の手配、密会の場所・・・等々の手配をしたのが
俊太郎さまでした。
なので、俊太郎さまの立場もどんどん危うくなっていきます。
そして、元治元年6月5日(1864年7月8日)・・・
そのことが新選組にバレてしまい捕縛。
(『薄桜鬼』や『艶が~る』では
沖田さん率いる1番組が捕縛にあたってますが
史実では武田 観柳斎率いる5番組だったとか)

薄桜鬼でいったら、このシーンねw
屯所である前川邸の蔵で
土方さん直々の過酷な拷問の末、自白。
これが池田屋事件のきっかけになります。
その後、六角獄舎に収容されましたが
池田屋事件から約1ヶ月後に起きた禁門の変の火災のよる
逃亡を防ぐため、罪状未決のまま斬首。享年36歳。
これは、新選組がやらせたとも言われていて
その亡骸は、1つの穴に放り込まれ
白骨化されるまで放置されたといいます。
ですが、俊太郎さま。
明治24年(1891)、特旨を以て正五位を贈られたそうです。
(正五位とは、天皇や将軍に謁見できる位だとか。)
彼の死から30年経って贈られたものですが
時代が明治に変わっても俊太郎さまは
ちゃんと忘れられずにいたんだな、と。
ちなみに、建物の一部は当時のままだそうです
9月21日(土)。
三連休初日。
お墓参りに行ったあと、史跡巡りに行ってきました。
一番最初に行ったのは、俊太郎さまの住居跡。


元々は近江出身の俊太郎さま。
お父様が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住。
尊王攘夷派の梅田雲浜(うめだ うんびん)に弟子入りしたものの
安政の大獄により、恩師を失い、幕府に強い恨みを持っていました。
その後、この住居跡でもある枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門と名乗ります。
同じく尊王攘夷派の志士と交流し
有栖川宮との間をつなぐなど長州間者のパイプ役として
情報活動と武器調達にあたります。
(俊太郎さまが京なまりの言葉が話せたのも大きな要因だったとか)
そして、「壬生浪士組」が「新選組」の名前を
もらうきっかけになった
八月十八日の政変により
長州人は京を追い出されてしまいます。
京への出入りを禁止された長州人は
京に出入りするためには「潜伏」という形を取らねばならず
その宿の手配、密会の場所・・・等々の手配をしたのが
俊太郎さまでした。
なので、俊太郎さまの立場もどんどん危うくなっていきます。
そして、元治元年6月5日(1864年7月8日)・・・
そのことが新選組にバレてしまい捕縛。
(『薄桜鬼』や『艶が~る』では
沖田さん率いる1番組が捕縛にあたってますが
史実では武田 観柳斎率いる5番組だったとか)

薄桜鬼でいったら、このシーンねw
屯所である前川邸の蔵で
土方さん直々の過酷な拷問の末、自白。
これが池田屋事件のきっかけになります。
その後、六角獄舎に収容されましたが
池田屋事件から約1ヶ月後に起きた禁門の変の火災のよる
逃亡を防ぐため、罪状未決のまま斬首。享年36歳。
これは、新選組がやらせたとも言われていて
その亡骸は、1つの穴に放り込まれ
白骨化されるまで放置されたといいます。
ですが、俊太郎さま。
明治24年(1891)、特旨を以て正五位を贈られたそうです。
(正五位とは、天皇や将軍に謁見できる位だとか。)
彼の死から30年経って贈られたものですが
時代が明治に変わっても俊太郎さまは
ちゃんと忘れられずにいたんだな、と。
ちなみに、建物の一部は当時のままだそうです
