それに気付いたのは2月17日(木)の朝だった。
いつも通り朝8時にヘルパーさんが入ってくれ、祖父を車椅子で寝室から居間に連れてきて着替えを行う。
あの日も同じだった。
居間に入ってからまず上着を着替え、下半身はオムツを取る前に肌着や靴下、ズボンを穿かせておく。
オムツを外し、温めた濡れタオルで清潔に拭いていく。
いつもと変わらない。はずの作業だった。
それを行っていたヘルパーさんが気付くまでは。

『お父さんの背中黄色くない?』

台所で朝食の準備をしていた手を止め、居間にそれを見に行く。
確かにいつも見るきめ細やかな艶のある肌は違いなかったが、その肌は真っ白ではなく黄色味がかっていた。
外したオムツの色がいつもより少し色濃い。
おかしい。
身体の他の部位を確認してみたが、異常はなかった。
東京の伯母に連絡し、かかりつけの往診医にも連絡をとった。
何ヶ月か前、尿道が狭まり、尿の出が悪くなり痛みを伴った事はあった。
またそれかな?と思った。
とりあえずその日は様子を見る事になり、着替えを済ませ、歯磨きをし、朝食を食べ、いつもと変わりなくオシャレな祖父はハンチングを被り、サングラスを掛け、風邪でもないのにマスクをし、左手に時計をはめ、身だしなみを整えた。
そして馴染みの水色ボディの迎えの車が来て、祖父母は近所の病院のデイサービスに出掛けて行った。

夕方、デイサービスから帰宅した祖父母を玄関で迎えた。

『ただーいま』と少し疲れながらも、我が家に帰ってきたぞっと言う祖父母の安心感漂う声が玄関に響く。
玄関の段差を大人2人がかりであげ、用意していた室内用の車椅子に座らせる。
送ってくれた介護タクシーのドライバーさんが、荷物を玄関に置いてってくれる。
『それじゃあ、失礼しますー』と言って出て行くドライバーさんに、お父さんは『ありがとう』と言って右手を軽く挙げてお礼を言う。
握手をする時もある。
それは毎回、自分がお世話になった人に対する、祖父の礼儀だったのだろう。


夕方16時半過ぎ、うちの夕飯は早い。
夜19時にヘルパーさんが来てくれるので、それまでに夕飯を済ませ、歯磨きを終えていなければいけないからだ。
その日もいつもと同じで、テレビを掛け、居間でくつろぐ祖父母に夕飯を出した。
すると祖父が急にトイレに連れてってくれと言い出し、これからご飯なのに今から?と思いつつ、車椅子を押してトイレに連れて行く。
終わったら呼んでね、といつものように声を掛け台所に戻った。

5分か10分程して、トイレからコンコンコンと合図が聞こえた。
新しいパッドを用意しトイレに向かう。

手にトイレットペーパーを取り、前後を拭こうとしたその時、便器の中の色の違和感に驚いた。
とりあえずオムツをあげ、ズボンを穿かせ、祖父を居間に連れて行き、前掛けをし、ご飯を食べるようにしてあげた。
それから携帯を手にし、伯母に連絡を取った。

『もしもし?どうしたの』
伯母の声に、今見た事をそのままに伝えた。
そして往診医のY先生に、高校時代の先輩である伯母から連絡をしてもらう事になった。

一体何なんだろう?
朝来てくれていたヘルパーさんが『黄疸と違う?』と言う言葉を口にしていた。
黄疸って何?
何で黄疸が出来るの?
携帯を手に“黄疸”について調べていた。
そして、当てはまるワケのないワードに目が留まった。
頭の中でCaと言う記号に変換された。
全く現実味を帯びない形でそれが見え隠れし始めた。

しばらくして家の電話が鳴った。Y先生でした。

『明日土曜日、検査してみましょう』
と言う事でした。
Y先生は個人の診療所の往診医と言っても、もともと大きな病院の外科医として働かれていて、今でもお手伝いに行ったりされています。
なので診療所では検査出来ない事でも、先生が病院での検査を手配してくれるのです。


2月19日(土)朝、デイに行く時と同じように用意を整え、いつも利用する水色ボディの介護タクシーさんに迎えに来て貰う。
病院に着き、待合いで待っていると、私服姿のY先生が駆けつけてくれた。
そして静かな土曜日の館内を奥へと案内された。
車椅子を押して、祖父を処置室奥に設置されているベッドまで連れて行く。
ジャケットなどの上着を脱がせ、血圧を計り、血を採る。
そして上着を元通り着せ、次はCT室へ。
そこでもまた上は肌着だけのようにし、下肢はベルトを抜いた状態で検査台に寝かせた。

どのくらい中で検査が行われていただろう?
20分?30分くらぃだっただろうか?
検査が終わり、服を整え、処置室に戻りジャケットや帽子といった身だしなみを整えた。
そこへ先生が来て、精密検査をするために今日このまま検査入院をするか、黄疸の症状を改善するための点滴を毎日打ちに来るかと案を出されました。
伯母と電話をして、後者は祖父の負担が重すぎるので、必然的に前者の検査入院を選択するしかなかったのですが、部屋が一番高い部屋しか空いていなかったので、先生もそれ以上は勧めませんでした。
そして自宅で様子を見ながら、21日(月)に先生の紹介状を持って、日本赤十字社医療センターに行く事になりました。

時間はお昼を回っていました。
先生に処置室を出てすぐの、中待合いで待つように言われ、祖父とやっと検査が終わったねと談話をしていると、先生から診察室に入って下さいと言われました。
急いで紹介状を書いて下さったのでしょう。
朝からバタバタしたので、高齢の祖父はだいぶ疲れてしまっているでしょう。
看護師さんが気を利かせて先に祖父を待合いに連れて行ってくれました。
私は診察室に入り、先生にお礼を言いました。
血液検査の結果はさすがにまだ出てはいないと言う事でしたが、CTの検査結果がもう間もなく出ると言う事で、少し待つことになりました。

前回検査した時のデータが2010年4月、今回のCT検査の結果を見比べると、明らかに違う点がありました。

携帯で調べた時の初期症状や、これが原因ではないかと記載されていた“ワード”を半信半疑で話しました。
すると先生が『恐らくそうだと思います』との一言。
そして私は何故そんな事を言ったのか、普通ならもっと違う事を言いそうなものを、先生に『長くてどのくらいでしょうか?』と聞いていました。
非現実的で、頭の中がカラッポになりました。


何でこんな事になったんだろう?

『恐らく癌でしょうね。間違いないと思います』
先生が言った一言で、非現実的だった私の頭の中にはっきりと、それが意識付けられた。

『長くて、どのくらい生きられますか?』

『進行状態から言って、1週間~2週間くらいですね』

これが癌の告知、余命宣告なんだなあと実感しました。
母や伯母でなく、私自身が一番最初にそれを聞けて良かったと、そう思いました。

『大丈夫?いける?』
先生に聞かれました。

『伯母さんには僕から伝えておくから』

その言葉に私は『はい』としか応えられませんでした。
私の口から伯母に伝えるには、少し荷が重た過ぎました。


祖父が待合いで待っている。

何も知らず、朝からの検査で疲れた祖父が待っている。
帰ってお昼食べようって、さっき中待合いで話した祖父が待っている。

何も無かったかのように、心配をかけないように、気付かれてはいけない。
家の中でそれを知っているのは私だけ。
伯母はまだ東京に居るのだから、平然を装っていなければ…。

『ありがとうございました』と言って診察室を出てすぐの中待合いで、私はそんな事を考えながら泣いていた。


『お待たせ』そう言って私は待合いで待つ祖父のもとに戻った。

気付かれてはいけない。不信感を持たれてはいけない。

電話を掛け介護タクシーを呼び、それから家までの距離がいつもより長く感じられた。


祖父母の家の前の通りはとても狭く、セダンでギリギリの道幅、お年寄りや子供がとても多く、自転車が頻繁に通るような道だ。
表に出てお隣の奥さんと話をしていた祖母が『おかえり』と、曲がった腰を伸ばしながら迎えてくれた。
『こんにちわ』と言うお隣の奥さんに、祖父は右手を挙げて『こんにちわ』と返した。


翌日2月20日(日)伯母が東京から帰ってきてくれた。

祖父母の介護は私と伯母の二人で行っている。
伯母は東京に住んでいるが、月に3度か4度程和歌山に帰ってきてくれる。月の半分以上を和歌山で過ごしている。
理解ある旦那のおかげだと、近所のおばさんたちやうちに来てくれる何人ものヘルパーさんたちが言う。

『ありがとう。大変やったね』
伯母が労ってくれた。
この家の中で、1人で抱えているにはあまりに重く辛過ぎた。

余命1~2週間なんてアテにならない。
1ヶ月と言われた人でも半年や1年と長生きしてるじゃないか。
そう思った。