甘く憂いを含んだ女性像で大衆から絶大な人気を博した画家
東郷青児の生誕120年を記念した展覧会
「東郷青児 夢と現の女たち」が
大阪天王寺のあべのハルカス美術館で開催中です。
※ 会場内は特別許可を得て撮影しています。
東郷の画壇デビューから「東郷様式」が確立された1950年代末までの軌跡を追う展覧会です。
会場には作品と資料合わせて約100点が並びます。
東郷青児
1897年鹿児島生まれ。5歳の時に家族で東京に転居します。
1910年に青山学院中等部に入学。
「青児」という名前は「青学の生徒」という意味の雅号だとのこと。
19歳の時に二科展に《パラソルさせる女》を出品、二科賞を受賞。
その後フランスに渡りピカソなどとも交流します。
日本に戻ってからも本の装丁やデザイン、壁画の制作など、精力的に創作活動を行いますが、
1978年逝去、80歳でした。その死後文化功労者になります。
展示は4つの章に分かれています。
第1章 内的生の燃焼 1915~1928
東郷は人との出会いに恵まれ、幅広い人脈を作っていきます。
18歳の時、友人の紹介でコントラバス奏者の原田潤交流し、作曲家山田耕作とも出会います。
山田耕作に東京フィルハーモニーの一室をアトリエにして絵を描くことを勧められます。
演奏を聴きながら描いた作品がこちら。
左の作品、《コントラバスを弾く》はまさに原田潤を描いた作品。
右の作品《パラソルをさせる女》初出品にして二科賞を受賞したデビュー作です。
なんと19歳の時の作品。
二科展への出品を勧めたのは画家の有島生馬、作家の有島武雄の弟ということで
東郷の人脈の広さが伺えます。
1921年、にフランスに渡り7年間滞在します。
前年に結婚した妻を置いて1人での渡仏。その後呼び寄せ現地で子供もできますが、生活が困窮し、のち妻子を日本に戻しています。
そのフランス時代の作品。
東郷はピカソとも交流します。
「自信のない色はつかうな!」というピカソのアドバイスによって
色数を絞って描くようになったといわれています。
左 《ピエロ》1926年 油彩、キャンヴァス
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
右 《サルタンバンク》1926年 油彩、キャンヴァス
東京国立近代美術館
第2章 恋とモダニズム 1928~1930年代前半
1928年東郷はフランスから帰国します。
長年離れて暮らしていた妻子との間にできた溝は埋まらず・・・
そんな時に出会ったのが年下の令嬢みつ子。心中未遂まで起こしてしまいます。
さらに、その心中未遂を小説にしようと取材に来た宇野千代と、その日に同棲を始めます。
まさに、怒涛のジェットコースター女性関係・・・
作品自体は、1920年代のアールデコといったパリのモダンなセンスを生かしたものに。
第3章 泰西名画と美人画 1930年代後半〜1944年
1933年にフランスから帰国した藤田嗣治との交流を通して
百貨店の壁画や美人画を手掛けます。
左《黒い手袋》1933年 油彩、キャンヴァス
損保ジャパン日本興和
右《テラス》 1935年 油彩、キャンヴァス
広島県立美術館
そして!かつて心中未遂を起こした女性、みつ子と、ついに、結婚を果たします!
公私ともに安定した時代を迎えます。
第4章 復興の華 1945~1950年代
1945年の終戦直後から、東郷は二科展の再興のために奔走し、仲間に呼びかけ、翌年、二科展を再開させます。
そこからら東郷二科と呼ばれる時代が始まります。
1952年、日本は主権を回復します。そのころから東郷の作品には憂いを含んだ女性が多くなります。
当時の世界情勢に対して人々が抱える喪失感や不安が反映されてたのではないかともいわれています。
《望郷》 1959年 油彩、キャンヴァス
損保ジャパン日本興和
「東郷様式」が確立したのもこのころだと言われています。
東郷様式とは・・・
(評論家植村鷹千代まとめ)
・誰にでもわかる大衆性
・モダーンでロマンチックで優美、華麗な感覚と詩情
・油絵の表現技術にみられる職人的な完璧さと装飾性
東郷が描く作品は、CGのように滑らかですが、逆にドライな印象も受けます。
でも、よ~く見ると、刷毛で描かれその毛の動きを感じることもできる・・・
とても、不思議な感覚を覚えます。
無機質の様であり、でも生命力も感じる女性たちは
現代の「フィギュア」に通じるものがあるのかもしれません。
関連グッズも充実しています。
「東郷青児 夢と現の女たち」
あべのハルカス美術館で
4月15日(日)まで開かれています。
あべのハルカス美術館HP