妻の病状の進行が早かったのか遅かったのか、私は他にこの病気の人を知りませんから分かりません。
経験豊富な訪問看護師のIさんは同じ市内に何人かの多系統萎縮症の患者を知っていましたが妻の病状の進行についてコメントしてくれることは有りませんでした。
軽い体のふらつきから始まって、つかまり歩き、杖使用、歩行器使用、車椅子、寝たきりへと確実に進行していったのは確かです。
介護する立場で何が辛かったかと言えば意思疎通の困難さが第一でしょうか。
妻の言葉が出なくなる障壁が私の前に現れます。
私も滑舌が悪いものですから、双方向の意思疎通が出来にくくなってしまったのです。
妻が何かを訴えようとすると、私は文字盤を差し出すのですが、途中で筆談を諦めてしまうことが多かったのです。
そのとき妻の目に涙が湧き出てくるのを見るのは辛いことでした、でもどうしようもありませんでした。
文字盤の字を指し示す指は大きく振れてしまい一箇所に留まることはありませんでした。
判読可能なのは4文字くらいの短いセンテンスまでだったでしょうか。
私が勝手に判断してしまい、妻の意に沿わぬことをしてしまったり、妻の方が早々に文字盤で伝えることを諦めてしまうこともありました。
相手の視線を読み取って文字を特定できる特殊な能力を持つ人が居るようですが私には無理でした。
県内の脊髄小脳変性症支援グループが置いていってくれた意思疎通用の装置はどれも使いこなせるものではありませんでした。
息子の協力で視線入力機能をPCに入れて試しましたが、妻は視線も定まらなくなっていて使えませんでした。
あるとき、妻の姉さんと一緒に妻が指す文字盤を"眺めて"いました。
とても長い文章でした。
読み解けるはずなどありませんでした。
宇宙の中から一つの砂粒を探し当てるようなものでした。
その夜義姉さんから電話がありました。
「あの子が言いたかったことがわかったの」
『ゆ・う・べ・し・に・が・み・が・や・つ・て・き・て・か・が・み・を・お・と・し・て・い・つ・た』
確かにあのとき鏡は落ちていました。
こんな奇想天外な文章を妻は読み解いてくれると思ったのでしょうか?
妻が最後まであきらめずに指し続けたのは血の繋がりに期待してのことだったのでしょう。
人には不思議なことがあるものですね。
そんな困難な介護の毎日に私は自分を見失ってしまうことも有りました。
被害者意識が高まり妻に心ない言葉を投げてしまったり、ふて寝して介護を放棄してしまったことも有りました。
眠っている時だけが安らげたのは事実です。
妻の介護スタッフはそんな私に気をつかってくれ、習い事などにも誘ってくれましたが、私にはとてもそんな精神的余裕が有るはずはありませんでした。
それらの提案は余計に私を縛り付け追い詰めるものでしかありませんでした。
やがて私はハローワークと精神科クリニックに通うようになります。
この二カ所への外出は私自身のための行動であり、そのためか少々気分が軽くなるものでした。
ハローワークに行っても働ける訳が有りませんから失業給付を受ける為だけに通いました、希望する職種賃金には現役時代のものをそのまま書いておきました。
精神科の医師もハローワークの職員も、妻の仕事の関係先だったおかげか私には親切に接してくれましたが、妻の心情は複雑だったのではないかと思います。
ハローワークでは私の事情を汲んでくれて給付期間延長まで検討してくれましたが、成りませんでした。
精神科ではお決まりの鬱病にされてしまうのですが、医師は医師にしておくのが惜しいようなキャラクターを持った人で、ありありと分かる作られた表情で一緒に泣いたり笑ったりしてくれ、薬も山盛り処方してくれるのです。
自立支援制度でほとんど薬はただなので構わないのですが、私は若い頃仕事に行き詰まり精神科に緊急避難したことが有りそこで悟ったことは、「薬は飲んだ振りして下水に流せ」なのです。職場には真面目?に飲んでラリっている人がたくさん居ましたので。
山ほど薬物を処方されてもほとんど飲みはしませんでしたが、後年その薬が私にとんでもないことを引き起こしてしまいます、又今度書き・・・ません、今すぐ書きます。
精神科の医師は私の口から出るわずかな情報を薬に変えていくのが仕事ですから、私も面白くなって次から次にとエスカレートしていく訳なのですが、究極の薬物オラン★ピンに行き着いた時には私も興味が有ってやって?しまったんです。
そのころ同時に内科の薬も服用していたのですが、血液検査で血糖値(HbA1c)が
9以上という”動く死体”になっていて緊急入院させられたのです。
私も内科の医師も訳がわからなかったのですが、薬剤師が旧来の服薬管理方式である「お薬手帳」から謎を解いてくれて釈放されたのです。
それで、私には愉快な場所であった精神科クリニックを卒業することにしました。
私の精神が病んでいたのはアルコールの作用が大きな要因だと周りに思われるのは当然のことでしょう(部屋に入るだけで人は酔ってしまいましたから)、実は妻も私自身も、私がやわなアルコール依存性の人間では無かったことを知っていました。
後にかかることになるアルコール依存症専門医も、もっと深い心の中の要因が私の変調の主たるものであることは承知していました。
今となってはアルコール依存症とされ酒を断ったことで健康になれて幸いだったとは思っていますが。