あの頃の私は狂っていました。

それまでの人生ではどんな困難も乗り越えてきたつもりでした。

私は頭は良くないのにテクニカルなスキルにおいて凡人らしく無い部分が有り、会社はそれを知って膨大な仕事量を与えてきました。

たぶん普通では無理な仕事を鼻歌仕事でやっつけるので重宝がられていたんでしょうし、それは私の喜びでもあったのです。

厄年前の頃一度心身オーバーフローを起こし人生をリセットしようと思ったことが有りました。

そのときも精神のコントロールだけは失わず冷静に対処出来たと思っています。

それが出来なかったのです、妻の介護では。

アルコールで脳に麻酔を掛ける以外には心の痛みを止める手段は無かったのです。

それは周囲も理解してくれていたのですが、職場を離れた途端に理解者は周囲に居なくなりました。

妻が「会社やめなくて良いよ」そう言ったのは私の為には的を射ていた訳です。

私は妻の介護をしているつもりでいたのですが、それは有効に作用していませんでした。

やみくもにやっていたと言えるかもしれません。

介護に関する方程式が解けていなかったのです。

難病の妻はいったい何によってサポートされるのか?その基本が分かっていなかったのです。

私はそれは医療だと思っていたのですが医療は難病には無力であるのが現実でした。

私は明確な解が欲しくて県の難病センターに相談に行きました。

そこではっきり分かりました、医療保険ではなく介護保険が優先するんだと。

当時介護保険制度が出来てまだ15年ほどだったでしょうか、

世間に広く認知されるにはまだ時期尚早の過渡期だったと思います。

国が設計図を書いたのだからそれほどずさんな図面では無いとは思いましたが、

私は何か納得できないまま、介護保険制度に精通している妻に従って動くことになります。

私が泳いできたテクニカル世界と介護世界のソフトウェアコードはまるで違いました。

妻のケアに多くのサポーターが家に出入りするようになってきましたが、私が壊れていく様も克明に把握されていき、私へのサポートが大きなウェートを占めていくことになります。