秋になりました、体が軽くなったようです。
新しい業務携帯が使い難い、同一機種の新型だが、
前のより性能が悪い感じだ、キーの反応遅く配列も若干異なる。
ポケットの中でシャッター音が鳴ることも、バツ悪いで。
スマートフォンへ替えろというドコモの警告かな。
ぢぢい仕様のスマートフォンを開発中と聞くが、そんなもん必要とせんでね。
電波資源も限り有るもんやで無駄に使うと困ることも起こるんやで。
電車の中で皆が俯いて携帯いじってる風景は異常に違いない。
技術の進歩が生活様式を塗り替えていくのは確かだが、
廃テレビの真空管で無線機こしらえて反戦歌流した頃の方が人間らしい。
私の息子たちもくだらぬ情報に操られた生活ぶりだ。
ドコモの母体は公社の頃国民が作り上げたのですよ。
現在の通信インフラは国民の税金で構築されたものです。
通信は国民が皆公平に享受できるものであり、時間や量での課金は無かったのです。
距離が唯一価値区分であったが、これは現在もまだ残っているのかな。
今は
くだらぬ情報に価値が有るかのごとき通信会社の搾取行為がまかり通っている。
弱き大衆からくすねた銭が電力会社同様に、大衆の意図せぬ方向に流れていくのではないかい。
個人携帯もドコモに脅されてムーバからフォーマへ変更したんは最近のことや、
携帯なんかいらんのだが、ぢぢい仲間に変更連絡するんは更なる面倒やでしょうないわ。
新しいもんは慣れるのに時間がかかるんで困るの~。
んでもキー操作に慣れようと新聞記事を”写経”してみる。
福島原発の事故は、日本社会に深刻な衝撃を与えた。
その衝撃の本質は、「集団性」の持つ限界があらわになったことだと私は考える。
日本は西欧諸国以外で初めて「近代」に対応した社会であるが、
その理由は日本社会の持つ「集団性」にあるとみる。
十九世紀後半からの百年間の技術は、全てが重厚長大であった。
巨大な機械を動かすには膨大な数の人が力を合わせる必要があり、
いったん動きだしたら人間が機械に合わせて一糸乱れず動く必要があった。
大集団を効率的に動かすには、人々が集団を自分より優先する態度が不可欠である。
近世日本社会は偶然にも、この態度を自らのものとしていた。
逆に中国社会は個人の自由度が高く集団性が欠如しており、
孫文は「中国には自由が多すぎる、だから中国には革命が必要だ」と訴え中国人の集団化の実現を目指した。
・・延々
私も以前には、真理の標準や善悪の標準が分からなくては、天地も崩れ社会も治まらぬ様に思うたることであるが、
今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がないと決着しております。
何事でも私は只、自分の気の向かう所、心の欲する所に順うて之を行うて差し支えはない。
其の行いが過失であろうと、少しも懸念することは入らない、
如来は、私の一切の行為に就いて責任を負うて下さるることである。
如来とは無限の慈悲と無限の知恵と無限の能力を意味し、世界を実現する神秘の働きである。
・・延々
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし。
自分の身は自分で護る、誰も代わってもらえない、
独り生まれ独り死していく身である、
人の為と書いて偽と読む、
人の為とは結構なようであるが、所詮、嘘、偽りの生活である、
一人ひとりのいのちは、唯一、一回限りのいのちである。
生き難い世でありますが。
だいぶん慣れたわ。