鬼骨抄 16 完結編
エピローグ後期の授業が始まって間もなく麻美と誠一が研究室に現れた。誠一は松葉杖を未だに手放せないようだ。その誠一の世話をまめまめしく麻美がやっている。まるでその姿は夫婦のようで微笑ましかった。「先生。篠原誠一ただいま帰ってまいりました」誠一は直立不動の姿勢を取り敬礼した。「おかえり。勇ましき戦士よ」私は笑顔で二人を迎え入れた。「あっ。ちょっと待って、椅子を引いてあげるから」そう言うと麻美は誠一のために椅子を引き、腕を掴んでゆっくり座らせた。不要になった松葉杖を受け取ると揃えて壁に立てかける。「先生。誠一君ですけど、精密検査の結果脊椎に少し損傷があって後遺症が残るかも知れないって言われたんです。だから私・・・一生世話をするって決めたんです」麻美の顔は真剣だった。いつのまにか呼び方も篠原君から誠一君に変わっていた。「僕はそんなに気にしてくれなくていいって言ってるんですよ。麻美さんにはもっと相応しい人が現れるからって」誠一は困ったように頭を掻いた。「相応しい人ってどんな人よ。命がけで私を守ってくれる人なんてこれからの人生で現れるとは思えない」「だから、あれは吊り橋理論だってば。なんの取り柄もないこんな僕と一生を共にするなんて馬鹿げてるよ」「何が馬鹿げてるのよ。誰がなんと言おうと私は決めたの。私は一生あなたから離れないって」なんと男冥利に尽きることか。僕はそんな誠一がとても羨ましかった。私は妻や子のためにいざと言うとき命を賭して立ち向かえるだろうか。以前の私だったら不可能だったかも知れない。「ところで先生。あの事件てどう言うことだったんですか。是非とも総括してください」麻美が三人分の紅茶をテーブルに置きながら言った。「そうだね。君達には知る権利があるね」そう言うと麻美も誠一も頷いて見せた。「まずは例の鬼霊散だけど、友人の研究室で分析してもらったんだ。結果はカルシウムが九十八パーセント、残りはヨモギにドクダミ、そしてゲンノショウコだったそうだ。この成分だと強壮効果はないし、興奮剤にもならないということだったよ」「でも、重治さんも僕も変身しましたよね」「それについては仮説だけど細胞の急速な活性化が原因かも知れない。きっかけとなったのはもちろん鬼霊散だ。ただし、成分的にはそう言う効果はなかった訳だから、何か別の要因が働いたと考えざるを得ないわけだ」「別の要因とは・・・もしかして菅野家の呪いですか」誠一が探るような目つきをした。「僕は一応科学者の端くれでね。呪いと言うものの存在に否定的な側にいる。ただし、それは未検証であるが故にと言うだけであって、頭から否定する気もない。つまりだ、あの事件が呪いによるものだった可能性も否定しないと言うことかな」「うーん。言ってることが良く分かりません」麻美は不満そうだ。「じゃあ如月君。人間が生きてると言うのはどう言う状態だね」「なんですか。唐突に」「まあいいから」「ええと、心臓が動いていて呼吸している状態です」「確かに、医学的に心肺停止は死を意味するね。じゃあ、いわゆる脳死と言われる状態はどうだろう。人工呼吸器によって呼吸もしてるし心臓も動いてる。これも生きていると言うことかな」「生きていると言う人もいれば、死んでいると言う人もいると思います」「ふむ。上手く逃げたね。僕は生きていると言うのは心肺が機能していて意識があることと捉えているんだ。じゃあ、意識ってなんなんだろうね。仏教では五感として目、耳、鼻、舌、身を五識と呼び六番目に六識として心を位置づけている。五識は感覚器官に依存いるが、六識の心はそう言った器官に依存しない。六識こそが個人を個人たらしめる意識の根幹と位置づけてるんだ」「ますます難しくなっちゃった」麻美は苦笑した。「先生。意識って言うのは脳の働きに寄るものだと思うんですけど」誠一が意義を唱える。「うん。確かに脳は生物の生命維持を司っているのは間違いない。でも、殆どは記憶と反射行動を司っていることしか分かっていない。例えば、始めて熱い物に触れたとしよう。触れた指は熱さを痛みとして感じる。それは記憶されて同じ痛みを受けないようにする。消化器官は食物が入ってくると自動的に消化活動を始める。循環器系に関してはフルオートだ。こう言った脳の機能に関しては恐らく人間を含む全ての生物にとって共通な働きだね。ならば脳の働きにだけ注目すれば人間は皆同じになってしまうんじゃないのかな」「でも人間はみんな違う」麻美が合いの手を入れた。「そう。みんな感じ方も違えば考え方も違う。なぜそうなのかは現代科学では解明されていない。意識に関しては、特に西洋医学について言えば説明の欠落している部分を宗教的な解釈に依存している場合もある。つまり、神の領域だとね」「それって魂のことですか」誠一が閃いたと言う顔をした。「まあね。魂についちゃ、辞典なんかには生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもので、古来より肉体を離れても存在し続ける不滅のものと信じられてきたと書かれてあったね。となれば、生物は医学的に生命活動の開始時に魂が宿り、肉体が滅びるときに抜け出ることになるわけだ」「その解釈からすると世の中は肉体を離れた魂で溢れていることになりますけど」「如月君。君はなかなか鋭いね。古代インドでは輪廻転生と言って、不滅の魂が新しい生命に宿って誕生すると言う考えがある。つまり、浮遊している無数の魂は入れ物となる新しい肉体を探しているとも考えられるわけだ」「でも、それっておかしいですよね。魂が心や意識だというのであれば、新しい命に宿ったとして以前生きていた時の記憶とかが残っていてもいいような気がするんですけど」誠一が異議を唱えた。「いいところに気づいたね。私はさっき記憶は脳の働きだと言ったよね。記憶は反射の記録であって情報だ。痛みをもたらした原因や快感をもたらした行為などが蓄積されたものだ。ちょっと下ネタになるけど、性行為によってもたらされる快感について全ての人がいいと感じているわけではないんだ。性行為自体を忌み嫌う人も少なくない。つまり、情報を評価したり価値判断をしたりする部分、つまりその人の本質みたいなものが魂のコアなんじゃないかと思うんだ」「と言うことは、新しい肉体に宿った時にはリセットされるんじゃなくて、そもそも記憶された情報が無いと先生は言いたいんですね」「そう言う解釈を私はしている。もちろん、科学的な根拠はないけどね」「なるほど。目から鱗ですね」誠一はしきりに感心している。「ちょっと待ってください。この話と呪いとどう繋がるんですか?」麻美が私と誠一の魂論に割って入った。「まあまあ。ここまでは前振りだよ。ここからが本題だ」「長い前振りだこと」「如月君は荒御魂と言う言葉を知っているかね」「あらみたま・・・ですか。聞いたことがあるような」「これは日本の古代神道つまり民間信仰からくるもので、荒ぶり禍をもたらす魂と言うものだ。これに対して和ぎり福をもたらす魂として和御魂と言うのがある。つまり、菅野の村は逆結界によってこの荒御魂が閉じこめていたと考えたのさ」「あっ。あの道祖神て」「うん。君は道祖神を研究していたから分かると思うんだが、普通は道祖神は外から邪悪を入れないために地域の境界に結界を張るために用いられたと言われているけど。菅野の村は逆だった。かつて、菅野の祖先が鬼霊散を作るために亡くなった人達の魂が荒御魂になっていると考えたんだろうね」「じゃあ。鬼霊散て言うのは荒御魂の怒りの力を借りて兵士を強化したとでも」「うん。菅野の地に漂う荒御魂の本質は憎しみと怨みだ。人間の持つ精神エネルギーで最も苛烈で強力なものだからね」「でも・・・」「魂の持つ本質はその人間の五識を支配するのはもちろん、身体の隅々までを支配下に置くとしたら体内細胞の活性化までもコントロール可能だったんじゃないかな」「じゃあ。誠一君と重治さんの違いはなんですか」「たぶん。血だと思う」「ああ」麻美は合点がいったと言うため息を漏らした。「福島県警は今回の事件について巨大な羆が原因と言う発表をした。矢沢警部補も敢えて異議を唱えなかったそうだ。村の人達は今後もこのことを口にしないだろう。そして、私もこの件に関しては発表するつもりはない。ただし、この手の事象については今後も情報を集めて体系的なものにしていきたいと思っている。これが私の今回の総括だ」私はすっかり冷めた紅茶を一気に飲み干した。「先生。僕も大学院へ進むことにします」「どうしたんだい、いきなり。もしかして如月君と一緒にいたくなったのかな」「違います。またこういう調査をする時に付いていくためです」「あっ。私も行きますからね」麻美も手を挙げた。「懲りないねぇ。君達も」私は苦笑いを浮かべるしかなかった。注)この作品の無断転載をお断りします。