学会の誤りは、一言でいえば、「能所の混乱」をしているということであります。すなわち、能化である仏の境界と、所化の凡夫衆生の信仰とを同一視し、混合させた上で我見の新義を結論としているのです。
 彼等が犯している「能所の混乱」とは、言い換えれば、「法義と信仰」の混乱、「仏意と機情」の混乱、「師と弟子」の混乱、ということです。
 「広布を願う一念」だとか「折伏に精進した功績」だとか「宗門を外護した功労」などは、衆生の信心修行の領域です。それに対して「御本尊」「宗祖大聖人」「三宝」等は本来、能化・師匠の領域であります。
 したがって、日興上人が、   「この法門は師弟子を正して仏になり候」 と制誡なされているように、これらを混ぜ合わせて論じてはならないのです。
 古来、日蓮正宗においては、御本尊の御書写をはじめ、御本尊に関わる一切の権能は唯授一人血脈付法の御法主上人にましますことは、不変の鉄則であり、今さら創価宗がどのような新義・異説を立てようとも、御法主上人の御允可なき『ニセ本尊』の製造・販売が大謗法であることは言うまでもありません。