先週、カウンセリングで、

重かったことを一通り話し終わったら、

頭の中を、

最近見た光景が蘇って通り過ぎていった。

話したいことを話し終わった感覚がしてたので、
(↑ずっと自分の感覚や思いや感情に否定やら、否認やらが自動で働いていたんだと思う。

ここに来てやっと、ここに来てやっと、

↑万感の思いがするので、2回書いて見た。

ごじゃごじゃしたものがわきでず、

すっと、話きったなと思ったままに、そう思える。


どんなことに対しても、もてなかった

自分の感覚の実感、確かさ、

私は今、こう思っている

っていう確かな輪郭みたいなものが、

感覚が淡いけど、確かに感じられて

それが、雪解けというか、

春の息吹が自分の中にやどったような

そんな風に感じられて、

嬉しいので敢えて長々、喜びを滔々と書いて見た キャハッ


話してみようと思って

話していくうちに気づいたのが


私、ガッツリ異邦人だったんだなぁ。


ってこと。


それに気づけるって、

そんな自分から随分、離れたんだなぁ。

ってことに連動して気づいて、


高橋先生の著書に、

回復とは、自分を知ること、

自分を知るということは、

そこから離れるということって、

感じのことが書いてあって、


それを、また連動して思い出して、


高橋先生の本に書いてあることは、

本当、正しい‼︎

と、更に深く実感した。


何かを話している時に、 

色々な思いや光景がよぎっていくこと 

って結構あって、

みんな大なり小なりそうなんじゃないかな

と思うけど…。


どうにも心が重くて、

今、本なんて読めないけど、

高橋先生の本を、

何度となく読んでいたから、


何かを話している時に、

高橋先生の本に書いてあった言葉や、

勉強会に参加していたから、

勉強会で聞いた言葉が


頭の中を過って、


『あ〜、あれ本当だったなぁ。』


って、それまでよりも、

より深く納得することが凄く多くて…、


今日も、思わず、

↑途中で力尽きて、何日か掛けて書いてるから、今日じゃなくなってる。

私、高橋先生の本、

今まで読んでいて良かった‼︎


話している時に、

高橋先生の本に書いてある言葉が過って、

あ〜、アレ本当だったって、

深く実感できる。


って言ってた 笑笑


確かさが、実感できる喜びが凄いみたい。


小さな頃から、物凄く深く乖離していた。


この身がここに在ることはわかる。

だけど、自分が何処にいるか?わからない。


何十年もの間、

心の中で叫ぶように思い続けていたほど、

自分がいる感覚が無かった。


何故か?って、

自分の思いや感情を殺し抜いていたからだけど、

最近になって、

過激に否定して殺さないまでも、


無意識的に殆どの感情を遮断して、

受け付けてなかったんだなって。


本当は、嫌なことを、


嫌な気持ちをないことにして(消して)、


そんな自分に気づいて貰う為に、

我慢して耐えて頑張って、

カウンセリングを受けて、

そうやってずっと待ち続けていた自分に、

前のブログで書いた話せなかった思いを

話せたら、

深く気付いてきた。


ずっと前からわかっていたことではあったけど、

これほどまでも深く染みついた心の習慣?

だったのかと、自分で驚いたよね…。


そりゃぁ、中々、治らないし、

こんな風にならなければならないほど、

とにかく恐ろしい幼少期だった。

怖かったんだ、怖かったんだと

ひたすら思う。


気づいたことと、


ずっと心にズンと重く沈んでた

ありとあらゆる負の感情が

少し薄まってきたのとで、

ただ、それに覆われて何も見えないって感じじゃなくなったってだけで、まだね、一杯あるし、出てくるし、書いてたら、出てきて暫く重くて鬱々としてたし…、湧き出てくる負に、気力が持ってかれて無気力が凄いんだと思う。


自分にある感覚に対する

確かさがやっと感じられるんだと思う。


本当にささかかにだけど。


それはほのかだけど、

書かずにいられないから、

相当、嬉しいんだと思う。

無気力を推してでも書きたいほどには‼︎


自分をあまりに殺し抜いてきたから、

自分下手過ぎるんだろうね。


嬉しさすら書いていかないと、

掴めない、気付けない。


あー、こんなに書きたいのは

嬉しいからなんだなって、

やっと気づくこの間‼︎


まるで、他人事のような

自分の感情との距離感‼︎


正直、ポンコツだなとは思うけど、


そんな自分を

全く否定しないでいられるようになった。


あそこを生きてきたからこその私

でしかないし、

よく生きていた。頑張ったなとさえ思う。


全力で、ありとあらゆる自分を、

否定してたのに。

えらいかわり様だよね 笑笑


話しが、多いにそれちゃった。


書きたかった光景って、

買い物してたスーパーで、


横から、

『〇〇君、抱っこか、おんぶ

どっちがいいの?』

ってきく子どもの声が聞こえて、


その内容と声の幼さに、

驚愕の反射で、

声がした方を見たら、

3歳くらい?と小学校中学年くらい?の

兄弟が居た。


凄く驚いていたんだと思うけど、

その時は、

それ以上何を思うことなく 

すっかり忘れていたんだけど、


重かった思いを吐き出したら、

急に、頭の中に映像が蘇ったんだよね。


自分が子育てした時は、

抱っこ帯なしでおんぶしたことがなかったから、

『抱っこか、おんぶどっちがいい?』

って選択を口にしたことがなかったけど、


そういう理由からじゃなくて、


あの少年の発する言葉には、

魂から驚愕したんだと思う。


反射で‼︎


愛着を知らずというか、

愛着=人道にも劣る、

殺されるに値する愚かな行為

という感覚しか育ちようがない家で育った

私にとって、


その言葉は、


まさに異世界の言葉なんだよね。

もうどうしようもないほどに…。


愛着っていうか、

愛を全く知らない、

見たこともない育ちをした私を、

トラウマの先生が、

愛って、本当は、

空気のようにありふれて

当たり前にそこに在るものだから、


コレ書くと、真空育ちの私は、やっぱり、

反射で、いまだにウヒャッって思うけど、

(マジでか‼︎って意味で)


貴方は、宇宙育ちだからね〜。 

(↑懐かしさを何故か感じるんだけど 笑笑)


っていつも言われてたけど、


あの少年は、生粋の地球育ち、

要するに、

愛着して育った子なんだよね。


そう言葉を掛けてもらって、

抱っこやおんぶをしてもらって育って、

弟に、

なんでもない当たり前のことのように

↑凄いよね〜って思うから、下線引いちゃった 笑笑

声を掛けてあげれる少年に

成長しているんだよね。


私が同じ年頃の時、

そんな言語の持ち合わせはなかったし、

理解不能言語でしかなかったよね。


子育てするようになって、

抱っこやおんぶや、ハグを決死でしてきたけど、

それは感覚的に根付いてしていたものでは、

全くなくて、

そうしないと、

娘ちゃんの心が、

自分の様に、

マスクメロンのようにズタズタになる。

そう思えて、

そう思うだけで、

心が張り裂けそうに

痛くて、痛くてたまらなかったから、

やらずにいられなかっただけだったから。


心の有り様が全く違うんだよね。


小学校中学年くらいの年齢で、

板についた地球語(愛着語)

=『抱っこか、おんぶどっちがいい?』

を使えることへ、

どうしようもなく魂から沸く驚愕

だったんだと思う。


大概の人が、当たり前に愛着して育つ、

ここは、地球で、

私の方が異端なんだけどね。


どうしようもなく感覚が、

宇宙育ち、異邦人なんだなぁって、

実感した。


この話ししてるときも浮かんできたんだけど、

これ書いてても、やっぱり

高橋先生の著書『消えたい』の中の一説がひたすら浮かぶ。


正確な文章は覚えてないけど…、


母親との愛着関係が成立せず育った異邦人は、

愛着して育った人と同じように、

社会のルールは理解するが、

感情の共有を知らないことを


宇宙からやってきて、

地球のルールは覚えたけど、

心の交流を知らない状態って

例えてある文章。


まさに宇宙育ちの私だよね。


カウンセリング中、


少年の言葉を、

異文化を見たというか、

地球人を見たって感じで、


その驚きは、新鮮なじゃない‼︎

斬新な驚きなんだって。


斬新にしか見えないぐらい

少年の言葉は、

私の中に

全くないもの

なんだよね。


新鮮じゃなく、

斬新にしか映らない私の異邦人ぶりに

なんというか感心してたんだよね。

結構な間。


今だから、感心できるんであって、

昔の私なら、

そんな自分であってはいけないって、

責めて変えようとしていたんだけどね。


無駄な努力と

全く意味の無い自責だったな

と思うと同時に、

そうしかできなかった私を、

可哀想だった、

よくそこを生ききったとも思う。


それに、

前より、自分から離れたから

今まで見えなかったことが見えて、

気付けなかったことに、

気付けたように思う。


今の私は、

愛着を随分取り戻しているんだよね。


頭の理解じゃなくて、

心がちゃんとわかってて、

当たり前に、

さも愛着して育った人かのように、

愛着のある言動してたりするし、

それが当たり前過ぎて

そういう言動をしていることに

気づいてもいない。


それくらい愛着が馴染んできている私

も居たりもする。


少年の言葉も、

斬新な驚きに覆われつつ、


何処かで、

ちゃんとわかって、

微笑ましく思っている私

も居るんだよね。


そうなってみて、

生まれた時から

愛着のない世界に閉じ込められて育ったことで、

我が身に起きてる

愛着を紡げなかった欠落の大きさ

に気づいたよね。


やっと‼︎


周りで見る愛着からくる言動に対しての

私の反応は、

前は、

愛着そのものが理解できないゆえの

大混乱と小さな驚きと大きな恐怖だったけど、


あの少年の言葉を聞いた

私の今の驚きって、

愛着を紡いで育っていけなかった

愛着を通した人間関係の経験値の欠落

から来てるんだなって‼︎


だから、


昔は、泣いてる子どもをその親が殴らない

っていうめちゃくちゃ当たり前の行為に、

一々、

驚愕してたんだよね。

理解が全くできなかったから。

本当、意味わからなかったなと思う。


今の私は、

まだ10年そこそこしか

人生経験がないはずの少年から

でた愛着のある関わりを

日々積み重ねてきたところからくる

板についた愛着のある言葉

『抱っこかおんぶどっちがいい?』

を聞いたことに驚いているんだよね。


愛着の歴史を

10年くらい積み重ねた少年の心を、


愛着の歴史を

一切積み重ねられなかった私が

ちゃんと捉えられたからこその

驚きだったんだと思う。


愛って、本当は、

空気のようにありふれて

当たり前にそこに在るものって、

自分で書いていながら、

反射的に、

ウッヒャッて驚いちゃっているのも、

生まれた時から、

愛着がない歴史を長く紡いできたからこその、

愛着を知らない、自分の中にない深さからきている驚きで、


愛着が全く理解できなかった頃は、

驚きといより、

理解できない混乱と恐怖、

愛着を理解し始めた頃は、

あまりの真逆さへの混乱と驚愕と、

変遷してるのが

自分で捉えられるようになった。


それがわかって、

ずっと埋まることのない欠損感の感覚は、

物凄くあったんだけど、


そう易々と埋まるものではないな

とハッキリ理解できてなんか納得できた。


ずっと早く埋めなければ‼︎

って焦燥してたけど、

無理な話しだったなと思う。


あの少年の言葉に、

愛着の歴史が見えなければ気付けなかった

と思うから仕方ないとは思うけど、


意味の無いことへの焦燥や、自責、

自分を追い詰めるだけのべきべき思考、

書き出したらキリがないほど沢山ある

心のガラクタに

振り回されまくってきたと思うと、

被虐者って、

つくづく

くたびれ儲けだよなぁと思った。


でも、

心に沢山のガラクタを

貯めていくしかない中を

生き抜いてきたんだと思うと、

自分を責める気には全くなれないし、

今は無気力過ぎて、

腹も立たない。

元気になったら、

このどうしようもない理不尽に

怒ってみたいなとうっすら思う。


また、話しそれたけど、

色々、自分が前より見えて、


子どもの頃できなかった愛着の経験は、

大人になっても、

それこそおばあちゃんになっても、

できる‼︎


自分自身がしてきたし、

それを通して愛着のある言葉を理解していけた。


だけど、


愛着のある関わりのない歴史を、

取り戻すことはできない。


赤ちゃんからやり直すしかないもんね。

考えたら当たり前だけど、

わからなかったわっ。


正確に言えば、

わかりたくなかったんだと思う。


自分じゃいけないって思っているのに、

もう取り戻しようなどないのだ

なんて認められないよね。


それ絶望しかないもの。


その歴史を、取り戻すことはできないけど、

その大きな欠損がさほど気にならなくなる日、

埋まる日は、

いつの日か生きていたら

くるんじゃないかって。


今になってやっとそう思える。


その日は、

自分が望んでいたよりも、

ずっと、ずっと先、

すんごいおばあちゃんになった頃、

私も、地球人が板についてきたわ

なんて誰かに言って笑えたらいいなと思う。


まだ、この話し続きあるけど、

今日はこの辺で。


書いてると、

書きたいことが色々出てくる。

ぼちぼちまた、書いていこうと思います♪


コメントの返信、

中々できないかもなだけど、

読んでます💕