再度、高橋先生の

高橋先生著
『子は親を救うために「心の病」になる』
より

〜本文抜粋〜
第四章
親とのつながりを持てなかった子の
不思議な訴え


『分かって欲しい』
ーそれは子どもの一番の願いだ。
その願いを叶えてくれて、
自分を認めてもらえた子どもたちは幸せだ。
『普通の』親子関係をもてた彼らは、
善も悪も知っている。
そして善を求めて、
親と一緒に生きていける。


また、たとえ目の前の親は
分かってくれなくても、
いつかは『分かってくれるはずだ』
と子どもは信じて疑わない。

虐待を受けた子は、
親から否定され、
悪だけを教えられてきたが、
少なくとも親との交流は保たれていた。

だからこそ、
いつかはわかってくれるはずだと、
悪の反対側にあるはずの善に
希望をつないでいた。

しかし、善という肯定的な交流も、
悪という否定的な交流もなく、
親と子の関係がまったく途切れていたら、
心理システムはどうなるのだろう。

子どもは分かってもらえないし、
またわかってもらいたい
という希望ももてない。


そこでは、これまで述べてきた
親子関係のすべての前提が壊れてしまう。
これから紹介するのは、
そういう子どもたちである。

彼らは小さい頃から諦めていた。
でも、何を諦めていたかは知らない。
『分かってもらう』ということも
『分かってもらえない』ということも
知らないので、
『いつかは分かってもらえる』
とも思ってこなかった。
どこか変だけど、
『この世界』とか人生はそういう
『あいまいなもの』なのだと、
彼らは、確信していた。

彼らが使っている
『親』や『家庭』という言葉の意味は、
『普通の』人たちが使っている
意味とは違う。
『母親』という言葉の代わりに、
『あの人』を使い、
『私の人生は・・・・・』と語り始める時の
『人生』は、客観的な、生まれてからの
『時間』というほどの意味でしかない。

『この世界』の手がかりを持たないゆえに、
彼らは、自分を救う手だても知らない。

親との繋がりを持てないと
世界は希薄化する


『私は普通じゃないんでしょうか』
という異邦人のような訴え


その訴えは不思議だった。
『何か、うまく生きていけないんです』
と彼女は話し始めた。

〜途中割愛してます〜

『何か、うまく生きていけないんです。
私はずっと生きづらさを抱えています。
うまく生きられないままに
ここまで来ました。
色々やり尽くしてしまった感じで、
それでもうまく生きられない。
疲れているのかな、
早くこの人生が終わって、
と思ってしまいます。
こんな歳になって、
何を考えているのだろうと思うけど、
このまま生きていくのだったら
もう嫌だなって思います。

うまく言えないけど、
子どもの頃からずっと
『平気なふり』をしてきました。
今も本当は平気で、
だから、仕事しているし、
生活しています。

友だちも少しだけどいるから、
平気で、ぜんぜん楽にやっています。
過去と比べれば、楽過ぎるくらいです。

30歳の頃、
カウンセリングに通ったことがあります。
小さい頃の話をしました。
カウンセラーから
『よくグレなかったですね。偉いですね』
と言われたけれど、
そんな余裕はありませんでした。

そこでは、
『母親を恨まないとあなたは治らない』
みたいなことを言われました。
よく分かりませんでした。
恨みならいくらでもあるけれど・・・・・
という感じでした。
でも、カウンセリングで自分の話をして
余計疲れました。
通じないというか、
何を話したらいいのか
分からなくなりました。
それで、そこは一年くらいで
行かなくなりました。

それから、もっと以前、
20歳の頃だったでしょうか、
ACの本を読んで、
その治療を受けたことがあります。
私も『AC』って診断されて、
そういう患者さんが集まっている
グループセラピーに入りました。
みんなは親への不満を言い合っていました。
それは『真実』だなと
思って聞いていました。
私にも親への恨みはあります。
でも、そういう切実さ、
熱心に訴えるようなリアリティはないな
と思って、
やっぱり行かなくなりました』
彼女は淡々と話し続けた。

『なんでも客観的に見えて、
困る時があります。
見えすぎるのでどれを選んでいいか
分からなくなります。並列に見えます。
そんな時に人から何か言われると、
それを選んでしまいます。
自分に基準がないのです。
ウチがちょっと変だったので、
確固たるものを
別に探し求めていたんだと思います。
『これがあれば私は大丈夫』
というものを欲しがっていました。
家の中にはないとは分かっていました。
外にあると思っていました。
でも、外にもありませんでした』

彼女の訴えは、
フワフワととらえどころがなかった。
はっきりしているのは、
人生に満足していないということだが、
苦しいとか、悲しいとか、
痛いとかがない。
普通は『満足していない』
の背景には、
自分が期待していて
実現できなかったもの、
求めたが得られなかったものがある。
それで、苦しい、悲しい、
痛いになるはずだ。

人が人生に求めているものは、
優しい家族、恋人や愛情、
仕事の業績や達成感、賞賛やお金、
あるいは、
人との繋がりや社会的な名誉・・・・・である。
カウンセラーはクライアントが
求めて実現できなかったものを想像して、
話を聞く。
そこに共感が生まれ、
クライアントの悲しみは受容され、
自分が求めて得られなかったものが
はっきり見えてくると、
解決もまた見えてくる。
しかし、大川さんの話の中には、
求めているものが何かが見えてこない。
彼女は何も求めていないのか?
そんな人生もあるのだろうか?

ちょっと考え込んだ後、
彼女は話を続けた。
『私の劣等感は、『普通じゃない』
ということです。
仕事が終わって美味しいものを
食べに行くとか、
女同士でおしゃべりを
始めたら止まらないとか、
仲のいい友だちと海外旅行に行ったりとか、
それが『普通』なんだと思います。
私にはそれがありません。
人と違う自分が怖い・・・・・。
同僚の女性から
嫉妬されていると思います。
どうしてかというと、
私が悩みがないように
見えるかららしいです。
『あなたはお気楽だからいいわね。』
と言われてしまいました。
そんなことはないのですけれど・・・・・。
仕事はミスしないように
いつも緊張しています。
普通にできるように、
こうしていれば普通、
と思って平気になるように
緊張してきました。
ずーっと緊張して生きてきました。
みんなと同じに生きようと思って、
緊張して生きてきました。
でも、うまく生きられません。
最近、急にイライラしたり、
突然、落ち込んだりしてしまいます。
落ち込むのはずっと前からあるけれど、
イライラは最近で、
それが強くなっています。』
淡々と語ってきた彼女は最後に、
『・・・・・もう疲れてしまいました』
と言って、目に涙を浮かべた。

人が人生に求めているもの、
それは心理システムの土台を
作っているものであり、
生きることの源にあるものである。
だから、
逆に単純なものである。

第一レベルは、『安心』である。
不安を避けて、安心していたい。
心のもっとも基本的な欲求だ。

それから、第二レベルには、
『愛情』と『お金』と『賞賛』の
三つがある。

先に述べたように、
優しい家族、恋人や愛情、
仕事の業績や達成感、お金、
人に褒められる、あるいは、
人とのつながりや社会的な名誉・・・・・と、
年齢や場所や人間関係によって
いろいろ形を変えて現れるが、
これら三つにまとめることができる。

基本的にはこの四つ、
『安心』と、
『愛情』・『お金』・『賞賛』を求めて
人生は出来上がっている。
逆に言うと、これ以外には、
人が人生に求めるものはない。

求めて人生を楽しみ、得られて満足し、
失って落胆し、手に取れずに苦しみ、
手に入れて喜び、失って悲しみ、
もう一度頑張ろうと思い、
もうだめだと断念し、
やっぱり満足して安堵し、
しかし、期待と違ってがっかりして、
人は生きていく。
それこそが『普通の』人生なのだ。

大川さんは、実は、
この第二レベルの
『愛情』と『お金』と『賞賛』を
求める気持ちが欠けているか、弱い。
これらを知らないのではない。
例えば、
『お金はたくさんあったほうがいいよね、
宝くじが当たったら嬉しいな』
と彼女に同意を求める。
たぶん、『そうね』と言ってくれるだろう。
しかし、その反応のリアリティは
少し違っているはずだ。
だから、
これらを手に入れた時の満足も
人とは少し違う。
それが、
彼女がまさに
『普通』でないと言っている内容であり、
彼女の苦しみである。

『普通に』生きるために
ずっと緊張してきた。
私は『普通』じゃないんでしょうか?
それが彼女の相談内容だった。

『孤独感』ではなくて『孤立感』

彼女と同じような不思議な感覚を
語ってくれた29歳の男性がいる。

〜途中割愛〜

『僕は、小さい頃からずっと
『人と関われない孤独感』を
抱えていると思ってきた。
大人になってから、
その孤独感が何なのかを知りたくて、
色々心理の本などを読んだりした。
でも、結局よく分からなかった。
心理の本には、
人と上手く関われないのは
人を怖がっているからだとか、
人に甘えられないからだとか、
書いてあって、
そういう気持ちは親子関係に源があると、
説明されていた。
だいたいは分かるのだけれど、
最後に原因が親子関係にある
と言われると、
それまで理解できたものが
スーッと壊れていく感じがして、
理解が続かない。
手が届かない、不全感が残る。
それで、自分は
『人と関われない孤独感』について
考えてきたけど、
本当はそうじゃないと思った。
僕のは、
『そこにいられない孤立感』だと思った。
僕一人だけ人とは違うんじゃないか、
という孤立感。
『孤独』じゃなくて
『孤立』なんだと思ったら、
悲しかったけど、
少し霧が晴れた気がした。
そういう自分を
認めないといけないと思う』

似たような訴えをする彼らのキーワードは、
『普通』と『孤立』である。
どこか自分は人と違うという感覚、
『普通』じゃないと思って
『孤立』している。

『普通の』人は、
愛情、お金、賞賛を求めて人生を楽しみ、
悲しんでいる。
目的を共有しているのが
一緒に生きている感覚であり、
だから、目的を達成したときの喜びも
素直に伝わる。
あるいは、同じ価値観を
もっているからこそ、
妬みやうらみ、また、競争も生まれる。
こういった感覚が一緒に生きている、
という実感だ。
この大前提の上に、
自分だけはうまくいっていないとか、
分かってもらえないと思うと
『孤独』を感じる。
最初から、この大前提の上にいないのが、
『孤立』である。


かなり割愛しています。


親が『いない』と、
心理システムができない

大川さんの母親に

『発達障がい』があるのは

間違いなかった。

医学的には

『軽度発達障がい』の部類に入るだろう。


その元で育った恵子さんは
『ネグレクト(養育の放棄・怠慢)』
に近いものを受けていたと考えられる。

恵子さんは衣食住の世話は

してもらったが、
精神的なケアを受けることが
まったくなかった。
つまり、褒められたり、叱られたり、
甘えさせてもらったり、
厳しく教えられたり、
一緒に考えたり・・・・・という
親子の交流がなかった。
それが、
心の成長に致命的な『傷』を残した。

もちろん、母親が悪いわけではない。
母親は子どもを育てるのに
一生懸命だったに違いない。
しかし、残念ながら
人間理解の『能力』が低かったので、
子どもに生き方を
教えることができなかった。

恵子さんは『母親を知らない』
だから、恵子さんは
『子どもになったこともない』
そして、
親の生き方を
コピーできなかった恵子さんには、
『普通の』心理システムができなかった。

子どもは母親を通じて、

この世界を知り、自分を知り、

人を知り、社会を知っていく。

その最初のてがかりが

小さい頃の母子関係の中にある。


毎日、子どもは母親の反応をみる。

それを基準に自分を知る。

自分は、いい子であるか、

悪い子であるか、そういう自分がわかる。


しかし、恵子さんには、

母親のポジションを

とってくれる人がいなかったので、

彼女は自分がいい子なのか、

悪い子なのか、上手くできたのか、

できなかったのかが分からなかった。

だから、

自分がどこにいるのか、

自分が誰なのかを確認できなかった。

彼女は自分を知らないままに

大人になった。


恵子さんの母親は、

食事を出してくれただろう。

でも、『美味しいかい?』とは、

聞いてくれなかった。

すると、

恵子さんはそれが美味しいものなのか、

普通のものなのか、

あるいはまずいものなのかを

確認できない。


体は美味しいものを食べて、

満足を感じているが、

一方で、それが何なのか理解できない。

この食事は、人間的に、

社会的に喜ぶべき事態なのか、

あるいは、ただの普通のできごとなのか、

その結論が出せないのだ。

出来事の強弱がなくなり、

すべてが並列になる。


美味しいものを食べてお母さんと

一緒に喜ぶという体験は、

人と共感する原点である。

それが人間関係を作る土台になる。


つまり、美味しいものを食べると

人は嬉しくなる。

それを確認してくれる人がいると、

美味しいという自分の感覚が

母親のそれとつながり、

共感が生まれる。


美味しさは自分の体が感じている、

まったく否定のしようのない、

明確で、確実な感覚だ。


それを、

他の個体である母親と共有できる。

人と人とのつながりができる。

生まれてから何度も繰り返された

その関係の先には、

母親以外の多くの人々がいて、

さらにその先に、社会があるのだ。


さらに、

美味しさから始まった人との共感は、

楽しさや嬉しさ、

悲しさや苦しみへと広がり、

人とのつながりを強固にする。


こうして、自分の体の喜び、

自分の感情は、

社会の共通の基盤である心理システムに

つながっていく。


しかし、母親が『美味しいかい?』

と聞いてくれないと、

『美味しいから、満足、

うれしい、よかった』

という体験は、

人間関係の中で確認できないままに、

ぼんやりとしてしまい、

やがて消えていく。


世界との関係が希薄になる。


彼女の感覚は現実世界から、

徐々に透明なガラスで遠ざけられていく。


子どもは人々が共通して求めているもの、

人とのつながりを確信できないままに、

大人になってしまう。


そうして、彼らはふわふわした、

とらえどころのない存在感の中で、

生きている。

自分には『美味しい』の確信がない。

それが彼らの『孤独感』であり、

『普通』でないことの感覚なのである。


第三章で紹介した

虐待を受けた子どもたちとの違いは、

彼らは『悪い親』を持ってしまったが、

その親は安定して

『悪』だったことである。


だから、

子どもは少なくとも

この世界の手がかりとして

『悪』を知ることはできた。

そして、彼らは

『善』もあるだろうと希望を

持つことができた。

彼らもまた『美味しいかい?』

と聞いて貰えなかっただろう。


でも、目の前の親から身を守らなくては

ならないという

圧倒的なリアリティの中で、

彼らは食事の満足を確信し、

人とのつながりを感じていた。


しかし、

障害のある親の元で育った子どもは、

この世界との関係を持てない。

善も悪も頼りなく、あいまいな世界である。