私が自分が虐待を受けたと知ったのは
いきなり頭の中に
100を超えるフラッシュバックが流れた

22歳の時だった。


フラッシュバックが起きてから、

何かを観たり、

聞いたりした瞬間に、

頭の中を無数に流れていく

フラッシュバックをどうにかして欲しくて

その頃、

出来始めていた診療内科に行ったら、

考えるのを辞めましょう

と言われた。


家に帰って発狂した。


もう何処に電話をしたかすら

覚えていないけど、

虐待について電話をしたら、

支援は18歳までだと言われた。


虐待を知りもしなかった時に

支援を得ることができようはずもないのに

知った時には

成す術なしと言われてしまったのだ。


今は少し変わってきているみたいで

良かったとは思うけど、

必要に反して、

変化が遅いとは思う。


その後は何箇所か精神科に行った。

辛さを決死に話したら、

『それだけ話せれば大丈夫です。』

と言われたり、


乖離をどうにかしたいと訴えたら、

『貴方、小さい頃から

乖離しているんでしょ。

どうにもならないよね。』

と言われた。

この人はなぜ

精神科で精神科医の椅子に

座っているのか?

と思った。


虐待のことを話したら

虐待のことが頭から離れなくなる、

アメリカでそういう事件が起きたと

話した精神科の先生もいた。


20年の時を経て、

その事件は

『犬として育てられた少年』

ブルース・D・ペリー著

に書かれている事件だろうと知った。


内容は、

セラピストが自分が思うストーリーを

クライアントに植え付けようとしたことで

起きたものだった。


意味合いを跳躍して、

単に厄介払いをされたことを

その本を読んで知った。


ブルース・D・ペリーは

虐待のトラウマの

第一認者と言われている一人で、

大人のトラウマは

重大なことだと取り扱われるのに、

重大な事件に巻き込まれた子どもは、

子どもだからと

なぜ犬のようにすぐ忘れると思われるのか?

と疑問を持って

子どもの虐待やトラウマになる事件に対し

トラウマに対することを

真剣に取り組んできた方だ。

失礼な使い方にも程があると思うわ。


戦争からの帰還兵が患う

PTSDと被虐者の複雑性PTSDも

全く違うものだし、

複雑性PTSDは

まだ認められていない疾患でもある。


親への恐怖を語ったら、

成人をしているのに

親の言うことを聞く必要などない。

嫌なら聞かなければいい。

貴方の言っていることがわからない

と言った精神科の先生もいた。


当時、私もその先生の

言っている意味が全くわからなかった。


親の言うことを聞かなければ、

殺されるか幽閉されるとしか

思わなかったから。


自己主張をして生命において

安全な育ちがあることを

当時の私は知りもしなかったから。


カウンセリングを受けて5年して、

衣食住に身の安全があり、

食べ物の好き嫌いや、

衣服の好み、

感情の好き、嫌い、嫌を言うことや、

お漏らしをすることに

生命の危険が全くなく、

安全なだけではなく

安心して育つ子どもが

この世に沢山いることが

心で理解できた時は、

驚愕のあまり、

みんな暇だな。そんなん育つわ‼︎

育つ以外すること何にもないじゃないか‼︎

と思わず叫ぶように言ったら、

カウンセラーがこう言った。


『それでも大人になるのは大変なのよ。

お外は危険だから。

悪い大人がいるから。』

『はぁ。家が1番危険だったわ💢』

って思わず言った。


フラッシュバックが1番酷かった頃、

沢山本を読んだ。


個人で児童施設を営んでいる夫妻が

書いた本だったと思う。


その施設では、

新米の若い子が夜泊まって、

施設の子どもたちと一緒に寝るのだそう。


沢山の子どもたちが

一緒に寝たがり甘えるのだそう。

複雑な気持ちで

読んでいたのをうっすら覚えている。


そして夜になると、

時々、

子どもの親が子どもを返せと

大きな声で叫びドアを叩くのだそう。

そんな時に、

子どもを連れていかれたら

大変なことが起きることがある

と書いてあった。

そんなことは

何が起きるかなど書いていなくとも

易々とわかる。


その後の文章の方が私には驚愕だった。


そういう夜は、

名前を呼ばれている子に

若いスタッフが覆い被さって、

抱き合いながら震える夜を

過ごすのだと書いてあった。


そんな人間がこの世にいるのか?

と目を見張って読んだ。

全く信じられなかった。


私なら迷惑をかけてはいけないと

出て行ったとも思う。


それから10数年して、

虐待のトラウマの治療を初めてから、

ブログとかを読むようになって、

TVでもよく聞く言葉だけど、

その頃はブログでもよく見た言葉、

虐待を見たら通報しましょう

が長い間、

全く理解できずに苦しみ抜いた。


通報なんかしたら、

子どもが殺される。

例え、

殺されるまでいかなくても

絶対に虐待は酷くなる。

その日以来、

延々に

お前のせいで酷い目に遭った。

恥をかいたと子どもが責め抜かれる

としか

私は思わなかったから。


そういう虐待の中を育った私が

そう思うのは当然の理でしかないのだけど、


自分の感覚、考えがおかしいという

感覚しかなかった私には

それが全くわからないから、

普通の人のように思えない私の頭は

やっぱり何処かに異常があるのか?

と自分を責めて疑って、

虐待を見たら通報しようと思えるように

ならなきゃいけないとずっと思ってた。


結愛ちゃんのノートの言葉、

『もうおねがい ゆるしてください』

を聞いた時は、
胸の奥から
許されるなんて
この世にあるなんて知らなかった
って言葉が噴き出して、
やばいと思って
TVのチャンネルを変えるか切るかをした。
直ぐに、
心が虐待されていた世界に飛んだ。

ほんの数分で帰ってこれて
回復してきていることを知った。

その後、
気になって仕方がなくなって
結愛ちゃんのノートの全文を
ネットで検索して読んだ。

沢山の人たちがTVやネットで、
結愛ちゃんのノートの文章を読んで、
怖かっただろう、
痛かっただろうと言っていたけど
私は全くそんなことを思わなかった。

気持ちを受容してくれる大人
を持たない幼い子どもが
恐怖や痛みなどを
感じとっていられたりなどしないことを
私はよく知っているから。

何も感じない離人症状態に陥る。
自分が何処にいるかすらも
わからないほどに。
私はそうだった。

私が結愛ちゃんのノートの文章を
読んで思ったことは
この虐待をする義理の父親なら
結愛ちゃんを幼稚園には行かせない
だろうなということだけだった。
もし誰かが結愛ちゃんを幼稚園などに
行かせようと働きかけて、
行かせねばならない事態になったら、
虫唾が走るようなことを
結愛ちゃんにしただろうなと思った。

それを当時のCOに言ったとき、
COがハッとする音を出して私を観た。

その音と視線に
私は異世界を生きて来たんだと
思い知らされた気がした。

幼稚園の先生が
幼稚園に頑張って連れてきて
って語っている文章を読んで、
事態の理解が遠いなと思った。

どの記事を読んでも、
結愛ちゃんの現実の大地に立った言葉を
言っている人があまりに居ないから、
だから、
死ぬんだと思った。

随分たって、
精神科の先生が的を得たことを
おっしゃっている記事を読んだ。

一人じゃダメなんだ。
区役所、児相、病院、幼稚園、保育園、
警察、周りに連携できるだけ
同じ理解を共有している人たちが
いないと誰も本当には
助けられないんだと思った。

心愛ちゃんの事件の時は、
TVをつけた途端に、
コメンテイターの女性が、
生命掛けで子どもを守るのが
本来の母親の姿だ
という言葉がいきなり飛び込んできて
そうだとわかる私がいるのに、
全くそんなことを知りもしない私が居て
心の中で、
大きな声で
エッ
と驚愕して叫ぶので、
私もその驚きに知らない私がいたのかと
驚いて大変だった。

心愛ちゃん事件の担当者たちの謝罪会見も
たまたまTVをつけたら始まってしまって
観てしまった。
本当は見たくなかった。
ろくでもない言葉を
耳にするとしか思わなかったから。

なんでだろう。
あーいう時に人が口にする言葉が
想像できる自分が嫌だ。

その言葉は口からせめて出すなや
と思う言葉を聞いたとき、
この言葉を大衆を前に言わずに
居られない方が、
全く背負えもしない重荷を背負って、
今後の人生をどう生きていくんだろうか?
と思った。

そういうことに思いを馳せれるほど
回復してしまった自分も嫌だった。
無責任な被害者でいたかったと思った。

私は自分のことを被害者だとすら
知らなかったけど…。

この頃、
色々な事件が続いてTVをつける度に、
驚愕の言葉が飛び込んでくることが
しんどくなってTVを封印してしまった。

今年に入ってTVをつけてみたけど、
2年近くTVを
観ない生活を送っていたせいで、
TVを見る習慣をすっかり失ってしまった。

昔は心がうるさ過ぎて、
観ていなくてもTVをつけて居ないと
家に居られなかったのに、
すっかり逆になってしまった。

最近やっと時々、
TVを見てみるようになった。
もう何もかもが違って観えるので
違和感が凄くてまだ慣れないけど…。

そして何週間か前、
昨日の記事を読んだ。

私は父親に殺されるような虐待を受け、
母親に簡単に見捨てられて育った
元被虐児だから、
虐待って死のイメージしかないくらい
死のイメージが強い。

だけど、
それは私だけじゃないとも思う。

文章を読んでいて凄く思ったのは、
羽馬 千恵さん著
『わたし、虐待サバイバー』
という本のカバーを外した表と裏に
小さな文字でびっしり書かれている
2000年から、
2019年までの虐待死事件のこと。

死の身近さに親近感を感じるし、
帯には、
『毒親に殺されないで、良かったね』
・・・?ふざけるな。
って書いてある。

この言葉にも
生き延びる過酷さを知る言葉に見えて
親近感しかない 笑

虐待って
死ななきゃいいなんて
生易しいもんじゃ全くない。

死は起きない方がいいけど、
回避できたらバンバイザイじゃ全くない。
そこからが本題だと私は思う。

私、複雑性PTSDが凄く酷かったの。
脳の感受期が全て
虐待しかなかった私の脳は、
6歳までに仮に完成する脳を
保有していないんだそう。

治るの?
ってトラウマの先生に聞いたら、
大人にはなれるけど、
脳は小ぶりって言われたし、

私が親元で育った心理発達は
マイナス2歳だとも言われた。

だから
虐待しか見えない世界を
長い年月、生きてきたんだと思う。

子育てに悩んでたとき、
児相に相談したら、
大の大人が4人、
ゾロゾロと家の中に入ってきて、
私の虐待の話に
はあ。はあ。
しか言わなかった。

虐待を相談する所って児相じゃないの?
はあって何?

精神科といい、
児相といい、私は運が悪すぎるのか
全滅だった。

それから20年以上経って
心愛ちゃんの事件が起きて3年、

虐待に携わる方が
「心愛さんの悲惨な事件からの

教訓を忘れず、

児童虐待防止対策に取り組もう」


「心愛さんの死を無駄にしないよう、

危機感を持って当たろう」


「相談対応では

危険性の評価を甘くしないことを伝えた。

事件を風化させないことを

念頭に取り組んでいる」


この言葉を発するのが
今の日本の社会の現実だと
理解してしまった。

ツッコミどころが多すぎて
何もいいたくないけど、
これだけはいいたい。

なんで壊れ果てた
脳を持っていて
誰とも繋がれず、
助けを求める脳すら無かった
私の方が理解が早いのよ💢

こういう言葉は、
被虐者の私には
今更過ぎるし、遠過ぎて、
やるせないにも程がある言葉だし、
児相って何屋さん?
って疑問が浮かぶんだけど、
これが現実なんたなと…。

昔の私は無力感に圧倒されて
何もいう気にすらなれなかったけど、
なんか無性に物申したくなってきた。

何年か前、
アメリカの性被害撲滅運動なのかな?
キャッチコピーに
一人でも居たらそれは多すぎる。
ってあったけど、

虐待死も本来そうじゃないの?
一人でもいたら、
それは多すぎると私は思う。

私は数年前に
普通の子は衣食住に生命の危機なく、
安心して生活していることを理解したの。

今は、子どもの育ちとは
本来、
育つ暇しかないのが
正しい育ちだと思ってる。

そんな育ち露ほどもしたことないけど、
あってると思うし、
違っていたとして
どの子どもにとっても
そうであるように変えるべきことでしょ。

ちゃんと子どもの頃に
被虐の子であっても、
子どもでいられる社会にしようよ
と思うの。

虐待死をした子どもから
学ぶとか教訓にするとか
言ってたら、
後何人死ねばいいのと思うのは
私だけじゃないでしょ。

だいたい学ぶ前に
そんなことをしたら死ぬって
大概の人が想像つくことだし、
そこじゃないでしょ。

虐待を見て何かに気づける人、
学びとれる人は、
虐待理解が進んだ人だけだと思う。

何も知らない人が虐待死を知って
知るのは、
自身の驚きだけだと思うよ。

それは虐待について
何も知らないことすらも、
知らないってことだ
ということに気づこうよ。

支援は知ることからしか始まらないと思う。

虐待を受けて育った被虐者から
学んで、
虐待支援の仕方を
広めている人だって
日本にはいるんだよ。

学ぶならそういう人から学ぼうよ。
ちゃんと学びに行っている
児相の方だって一杯いるんだよ。

これまだ、続きます。