子どもに『ママ』

と呼ばせることができない理由


高橋先生著 『消えたい』より


〜本文抜粋〜

彼女は、自分のことを

『ママ』と呼べないママだったのだ。

実は、自分をママと言えない

被虐ママによく出会う。

彼女たちは子どもに

ママと呼ばせないだけでなく、

自分の母親のことも、

ママとかお母さんとか呼ばない。

不思議なことに、

共通して実母を『あの人』と呼ぶ。


なぜ彼女たちは自分のことを

『ママ』と呼ばせず、

また実母を『あの人』と呼ぶのだろうか。


それは、次のような理由からである。

当たり前のことただが、

言語はその社会の中で

意味を共有されている。


そして、共通の意味の背景には

共通の人間理解がある。


『ママ』、『お母さん』は

生物学的に自分を産んだ人

という意味だけでなく、

人間的、社会的な意味を背負っているのだ。


子どもは、

最初は家の中で

『ママ』という言葉を覚える。


次いで、幼稚園、保育園、小学校と

進むにつれて、

『ママ』という言葉の社会的な意味を学ぶ。

普通は家で覚えた『ママ』の意味と、

社会的に使われている

『ママ』の意味との間には

大きな差異はない。


社会的に共通の『ママ』は、

優しいママだったり、

怖いママだったりするが、

でも、それはいつも子どものことを

心配している人で、

何かがあったら助けてくれる人である。

被虐は意味の違いに混乱する。

周りのみんなはそういう意味で

『ママ』を使う。

でも、うちの『ママ』はそれとは違う、

らしい……となって、

次第に『ママ』を使えなくなり、

代わりに『あの人』と言うようになる。


例えば、

幼稚園で転んで泣いてしまった。

そんな時に先生が慰める。


『大丈夫よ。もうすぐ、ほら、

ママが迎えに来るよ』と。

それはあなたが一番好きで、
一番安心できるママが
くるから痛くないよ、怖くないよ、
という含意である。

それが、社会で共通に使う日本語の
『ママ』という意味である。

しかし、

そんな言葉で慰められた時に、
被虐児は安心ではなく、
恐怖を感じる。

泣いている自分を、
先生が『ママ』と呼ぶ『あの人』に
見られたら、帰ってから
家で叩かれる、とそう思う。

その時に子どもは、
幼稚園の先生の使っている
『ママ』という言葉は、
自分の家のママのことではないと知り、
それからは『あの人』となるのだ。


そして、

彼女たちが結婚して子どもができた時、

ママを知らないママは、

子どもに自分を『ママ』とは

呼ばせることができずに、

名前を呼ばせる。

自分が社会的に『ママ』と呼ばれていい

存在であるのかどうか、自信がないのだ。