書いていて凄くややこしいことに
私はなっていたんだと思ったので、
回復過程
書いて整理しようと思う。

突然、100を超える
フラッシュバックに襲われて
私は虐待されていたって気づいた。

先に、
事実として私は
かなり酷い虐待を受けている。

頭では、虐待だとは思う。


だけど、本当に虐待か?
って言われるとそうかどうかが
ずっと判然としなかったし、

虐待の程度に至っては、
どんなにしても、
擦り傷程度のことで大袈裟な
としか思えなかった。
虐待だと気づいてから、
カウンセリングに通えるようになる迄の
18年の間ずっとそうだ。

カウンセリングに通い初めて、
私はCOに愛着して分離した。
おざなりかもしれないけど、
基本的信頼が少し持てて、
いい体験がいい体験として、
経験できるようになっていったんだと思う。

虐待下で育つといい体験って出来ないし、
いい体験がないと心、育たないと思う。
実際、全く私は育っていなかった。

特に、トラウマの先生は、
まるで幼児になったみたいな気持ちになる
『共感的応答』

を時々してくれたので、
今までわからなかった
普通の人の言葉がわかるように
なっていった。

いい体験が自分の中にできてきたら、
いい体験と悪い体験
=自分の親がしてきた虐待
のコントラストが私の心にできていった。

そしたら、
両親から私は、
遺棄(心理ネグレクトとネグレクト)と
否定的な関心からの言動しか
(心理的虐待と身体的虐待)
されたことが無いって気づいた。


時間の経過とともに、
定期的に、
紫の部分に気づく度に、
その思いは深まって、


凄い数のフラッシュバックを
長年に渡って観てきたのに、
虐待を受けた現実味が
ふわふわとして無かったものが、


実感のあるものになっていって、
虐待の程度も段々、段々、
その酷さ、異常さが
わかるようになっていった。

わかってきた頃は
まるで毎日、
集団リンチか迫害をされているようだ

と思って絶句した。

今は、紛れもなく虐待だったと思うし、
虐待の程度も実際起きた程度として
概ね理解していると思う。


混乱することが無くなった。


クローバークローバークローバークローバークローバー


〜ここまでの回復過程で

わかってきたことの整理〜


※自己体験からの理解の整理として、お読み下さい。


母親に愛着出来ず、

心理ネグレクトを受けていたので、

心が育っていなかった。


〜育ってなかった感覚

について〜


心って、

母親と愛着関係を持ったところから

『共感的応答』

日々繰り返して貰うことで、

感情が発展し、枝葉ができていって、


幼稚園、小学校と進めば、

幼稚園の先生、

同じ幼稚園に通うおともだち、

小学校の先生…と、

『感情を共有』する相手も増え、

さらに、心に色々な概念ができていく

と思うので、

私の体験から

まず、3パターン書いてみようと思う。


クローバークローバークローバー


〜『美味しい』から

心が育つ過程として〜


離乳食をはじめてから、

美味しい顔に、『美味しいね。』

美味しくなそうな顔に、すっごい顔ね。

『美味しくない?』『不味いの?』

『嫌いなのかな?』

っていう母親の共感的応答を

繰り返して貰って、


キャッ美味しい〜、ウッへッマズ

って感じている味覚と

『美味しい』『美味しくない』

『不味い』とかの言葉が繋がっていく。


沢山のおいしいや不味いに対して

母親に

『〇〇ちゃんはプリンが好きね〜』

とか、

『嫌いね〜』って言われることを

繰り返して、

食の好みを知って覚える。

母親も同じで、育てていく間に

子の食の好みを覚えるんだと思う。


私が娘を育てた時はそうだった。

納豆をはじめて食べた時の

娘の顔は忘れられない 笑


家庭で日々行われる食に関する会話が

学校で友達や先生との

『今日の給食嫌い〜

とか

今日の給食好き。』

の会話になるんだと思うし、


例えば

唐揚げが好きで、

3日後の給食が唐揚げだと、

『楽しみにして待つ』

って期待して待つことを

覚えることに繋がる。


虐待育ちの私。


美味しいものを食べても

常に心理をネグレクトされていた。


フラッシュバックの記憶

私には四つ上の姉がいて、甘党だった。

幼稚園児の頃、

姉はいつもチョコレートを

食べて喜んでいたから、

チョコレートは美味しいもの

だと思っていた。


だけど、

口に入れると

甘すぎていつも気持ち悪くなった。


美味しいはずなのに、

気持ち悪くなるのは何でだろう?

っていつも不思議だった。


ある時、

姉が

『5円の形の大きいチョコレート』

を美味しいと言って

すぐに食べ終えたけど、


私は、美味しいはずの5円チョコを

気持ち悪くて半分も食べないうちに

食べられなくなった。


この時はじめて

私の中で何かが繋がって、

『そおか、お姉ちゃんは、

甘いものが好きだけど、

私は、甘いものが好きじゃないんだ。

だから、いつも気持ちが悪くなるんだ』

って気づいた。


大量の悲惨な虐待のフラッシュバック

の中で、

ほんのちょっこっとだけ、

私にとってこういう一人で発見する

ときめくような喜びの感情のある

フラッシュバックがあった。

美味しい、不味いが

自力獲得になっていたんだね。


ブログを書いていると、

私は野生児みたいだとよく思う。

自力で獲得した上、

学んだことも話せば大変な事態になるから

誰にも話せず

フラッシュバックしたんだろうと思うと、

可愛いそうだったなと思う。


私は、ネグレクトと

心理的虐待も受けていた。


ご飯だよって言われて、

飯台にいくと何も無いことが時々あった。


ご飯ない💢って怒ったことない。 


小さな頃から

母親に毎日、

『お前のせいでご飯を

作らなきゃいけないから私は大変だ』

って言われているのに、

怒る発想は、圏外。思いつかない。


私が思うのは、

何かを言ったら母が喚き続け、

泣いてしまったら父に物も言われず

張り倒されることだけ。

それしか無かったから。


だから、

私は、いつも冷蔵庫から、

冷や飯を出して茶碗によそい、

それを口の中に放り込んだ。


茶碗が汚れてさえいれば

安全だと思っていたから。


私がご飯を食べて健やかでいるか?

は両親は気にもしない。


だけど、

ご飯を食べなかったら

やってやっているのにどうして食べん?

と、母が責め抜き、

父が殴りかかることだけは知ってるから。

茶碗を汚すことは

身の安全のために大事なことだった。

食への興味は無く、

食べることは義務だった。


〇〇が美味しいなんていったら、

それがお前は食べたいって泣くんだろう?

って責め抜き続けられたり、

贅沢だ、わがままだって貶される。


小学校1年生の時、

はじめて食べたクリームシチューが

凄く美味しくて、

この世にこんな美味しいものがあるのか

と思ったフラッシュバックを

何百回となく観た。


逆に

〇〇が嫌いって言ったら、

わがままだ、気狂いだって言われる。

父が限界が無い人だった。

親の言うことに嫌などあるわけが無い

って堂々と言って殴ってた。

私の家には、嫌い、嫌、あらゆる感情、

出来ない、間違え全て存在しなかった。


好き、嫌いを言うことは危険だから

言わなくなるし、

持とうとしなくなる。


ハッキリわかっていたら、

母親にわかって欲しくなる。

でも、求めたら、傷つく応答、

無視されるか、わがままって罵られる。

それ以上のことが

頻繁に起きる家だったから、

よくわからないままの方が

辛くないし、安全だから。


食に対して好き嫌いが持てなくなり、

食への興味、こだわりは

持ちようがなかった。


食に対する感覚も、

食べる喜びのない義務だった。


自己主張することは危険だから

自己主張できなくなる。


美味しいが受容されないと、

食べる楽しみを

感じなくなるから、

〇〇食べたいって思うことが

まずなかったし、

心理をネグレクトされ

応えてくれる人のいない

期待はしようがないと思う。



私は、期待に対するトラウマが

沢山あったので、

フラッシュバックが起きてから


『今度〇〇行こうね。』

って言葉を聞いてしまうと、

期待を裏切られるフラッシュバックと

激情が迸って長い年月、

苦しみ抜いた。


トラウマから解放されてから

しばらくの間、

約束する度に

もう大丈夫だって思ってジーンとした。


そうやって育った私は

学校で、給食の時に展開される、

『今日の給食嫌い〜 』

『今日の給食好き。』

『学校給食は不味いから嫌い。

家のご飯の方がいい。』

って会話は

なんでそんなことが言えるのか?

思うことができるのか?

理解できない。

不思議で、不思議で、

不思議で仕方がない光景だった。


同じ世の中なのに見えている世界が、

母親に愛着して育った人と

ことごとく違ってしまったなと思う。


クローバークローバークローバー


〜期待して楽しみにして待つを
私は、美味しいからじゃなくて、
ぬいぐるみから獲得した〜


上に、

トラウマの先生は、
まるで幼児になったみたいな気持ちになる
『共感的応答』を時々してくれたので、
今までわからなかった
普通の人の言葉がわかるように
なっていった。

って書いた。

その中の一つに
期待をして待つがある。

私は、
愛着をすることに殺される恐怖を
叩きつけられて育った。


私の育ちには虐待しかない。

幼い頃、ぬいぐるみは家には無かったし、

母親にくっつたり、毛布に愛着したり、

指をしゃぶれば、

母は遠い顔をするか、

『とろくさいことしとる』

と抑揚のない声で嘲るし、

父は、瞬間、瞬間で剥ぎ取り、

殴るぞ、つねるぞと指で仕草をする。


愛着に凄い飢えがあったけど、

実際、父に殺されかけたことで、

愛着することの恐怖は、

殺されることと合致して

恐怖が強すぎて

自分だけではどうすることも出来なかった。


ぬいぐるみを抱くことも
殺される恐怖を感じることだった。

カウンセリングをはじめて、
私はCOに何故か愛着し、
同時に大きなぬいぐるみを買った。

そして、そのことをCOに報告した。
父のように奪いにかかったり、
殺しにかかるか確かめたかったから。

回復してきたので
自分でやって起きながら
自分でも、
そこまでしなきゃいけなかったんだ
と今は呆然とする思いがするし、

自分がどれほど、
恐怖に閉じ込められ異常な状態
になっていたか?わかってきて
可愛いそうだったな
とひたすら思っています。

COは特に、

可とも不可とも無い感じに見えた。


COから分離した頃、

※なぜか私は、

大人の体で抱きしめるのに

丁度いいぬいぐるみが

欲しくて堪らなくなって

※今までこういう心からわく欲しいって

殆ど感じたことがなかったので。

白いクマのぬいぐるみを買った。


今度は、大きなカバンに入れて

それを持っていき、

COの前で抱いてみせた。


この時の私は、

殺しにかかるか確かめない

と居られなかったから。


私の様子を見てCOは

『お友達みたいね。』

といった。


自分でも何故かわからないけど、

COには、ぬいぐるみを買ってすぐ、

持っていけたけど、

トラウマの先生のところへは

怖くて持っていけなかった。


変わりに、たまたまその頃、

セラピールームにある

ぬいぐるみ達の中の

イヌのぬいぐるみに興味を示したら、

トラウマの先生が

※とって私に渡してくれた。


それ以来、先生は必ず、

私がセラピールームに入ると、

イヌのぬいぐるみをとって

私に渡してから座った。


※心理ネグレクトしかない私の育ちに

興味を持ったものを

とって貰う体験の一つも無かったし、


大人になると、

成人した心があるとみなされる。


私の育っていなさは、酷かったから

何かあると気付いてくれる人は

いたけど、


まさかここまで無いとは誰も気づかないし、

私も自分からここまでのことを

他者に話さないし、

話す力がそもそも無かった。


だから、

私にとったら、

私に無かったものが見えて

ただぬいぐるみを

とって貰える

それだけのことが

普通の人が生涯で一度あるかないか位の

嬉しい出来事に遭遇する

くらいの価値があった。


⚫︎傷つき抜いた心の柔らかい部分が

じんわり和むような思いと、


⚫︎身に起きたことがないので、

どうしてこんなことを

してくれるんだろうという不思議さと、

全く無いわけじゃ無いと思うけど、

解離やら認知の歪みやらが酷くて

私の心は、長い間、

起きた出来事を

起きたように感じ体験できる状態

にはいなかったので。


⚫︎人間凄い、こんなことをするんだ〜

って気持ちを


トラウマの先生は私の感覚からすると

天国か何かくらいのことをよくしたので、

毎回ビックリして固まりながら、

いつも感じてた。


セラピールームに入る度、

毎回、ぬいぐるみを渡して貰うことを

繰り返していたら、

多分一年以上経っていたと思う。


ある日、トラウマの先生は、

ブラインドや照明の調整をしたり、

窓を開けたりして中々座らなかった。


私にとって、

ぬいぐるみをとって貰うことは

スペシャルなことだったので、


先生の様子を目で追いながら、

先生がぬいぐるみを

取るのを忘れて座ったら、


その時に、

先生、ぬいぐるみ、忘れてる

って主張しようと決めてた。


両方とも私には特別なものだったから、

自分から

一個減らすなんて勿体ないと思って。


先生は座る時に、

ぬいぐるみをとって渡しながら、

『忘れてたでしょ』

って言った。


私は、忘れていなかったこと、

考えていたことを簡単に話した。


先生に話したことで、

帰りの電車の中で、

自分がいつのまにか、

期待して待つことをしていたこと

に気づいた。


そして、

昔見た全く理解できなかった光景

が理解できた。


ホームレス中学生の映画をテレビで

観た時、

幼い頃、主人公がお母さんに抱っこして

ベッドに連れて行って貰いたくて、

リビングか何処かで、

夜、よく寝たふりをしたって。


これを観た頃の私は、

そんなことをしたら、

母に迷惑がられるか、

父に蹴っ飛ばされるとしか思わないから、

全く理解できなかった。


これがわかった。

あの男の子は

期待して待っていたんだ

なって。


皆んないいことして

生きていたんだなって思う。


こういう小さな期待を繰り返して、

がっかりしたり喜んだりをして、

母親や家族、友人と共有したり、

(ひっそり一人で楽しんだりすること

もあると思う)

感情の幅を増やし、


やって貰う喜びから、

やってあげる喜びを覚え、

未来や夢を持てるようになるんだと思う。


被虐者だった私は、

幼稚園の頃から

夢なんて考えられなかったし、

貶されちゃうもの。


将来の夢の作文なんか書けなかった。

希望も未来も無かった。


それは、まるで

空が堕ちているようだった。


愛着を求められない母だと

愛着を否認して無いことにする。


夢とか希望って

心の柔らかい所からくるものを

開いていたら心がズタズタになる。


何も求め無いそれ以外、

道なんか無かった。


クローバークローバークローバークローバークローバー


〜私の物という所有の感覚も

ぬいぐるみから私は獲得した〜


大きなくまから白いくまになって、

一年して私の愛着対象は

ディズニーのシェリーメイに変わった。


娘がディズニー・シーに行くから、

お土産は何がいいと聞かれた。


欲しいって感覚にも、

強烈に苦しみ抜いたトラウマ

が山のようにあったので、


欲しいものを持つことも難しかったし、

それを娘であっても

言うことすらも難しかった。


娘にお土産、何がいい?

って言われた時、


本当に欲しいものを選んでみようと

思ってネット検索をして、

シェリーメイに一目惚れして、

私は人生で多分はじめて

本当に欲しいものを

相手は娘なんだけどお願いしたと思う。

娘はまだ学生だったのでお金は渡しました。

買ってきて貰うだけで精一杯だった 笑

人に何かをして貰うくらいなら、

蹴っ飛ばされていた方が

ずっと楽な被虐者体質バリバリなので。


シェリーメイを持ってからだと思う。


『バウンダリーズ境界線』

著 ヘンリー・クラウド/ジョン・タウンゼント

を読んだ。

バウンダリー(境界線)ができるまで

の章を読んでいて、

分化期→練習期→再接近期の所で、

所有権ー『私のもの』『私の』『私』

って言葉がでてきた。


読んでいて、

『私のもの』という感覚が

私にはない。無かった。

ってことに気づいたし、

私は、物に対し、

自分の物って感覚

執着がないことは

時々感じていたし、


若い頃、一人暮らしをしていた時、

私はいつまで経っても、

自分のアパートが

自分の家って感覚がしない、

借りてはいるけど、

自分でお金を払っている。


皆んな賃貸の家に住んでいても、

そこが自分の家と思っているように

見えるけど、

私のこの感覚は一体なんだろう?

って思っていたことを思い出した。


本を読み進めていくうちに

私は私の物という物質は持っていたけど、


私の物という

『所有の感覚』が無かったこと

段々気づいていった。


そして、

無かったとハッキリ気づけたのは、

白いぬいぐるみを持てたからだと思った。


白いぬいぐるみが

私の人生ではじめて持った

『私のもの』だったと思う。



とっても大切なこと


※『ある』が無いと無いはボンヤリする。

『ある』を心に持てハッキリ無かった

ってわかる。

私は、『無い』を沢山持っていたので、

『無い』概念があることや、

※のような法則を理解した上での

受容的関わりのカウンセリングじゃないと

被虐者のカウンセリングは、

会話が噛み合わなくて
正立しなくなると思う。

傾聴大事。
傾聴するには被虐者の心の深い理解が必要。
骨身に染みてそう思う。

大変迷走したのでショボーン


シェリーメイを手に入れた頃には

トラウマ治療にも自分のぬいぐるみを

毎回持参していて、


先生がある時、

『ディズニーは商売上手ね。

すっごく可愛いくて欲しくなるように

作ってあるわね。

見ていると欲しくなっちゃうわ。』

って言った。


『いくら先生でも、

これは私の大切な物だから

あげられないんだよ。』

って私が言ったら、


『いくらなんでも、貴方から

それを取ろうなんて思いませんよ。』

と先生は、言った。


先生の言葉に

感無量だった。


帰りの

電車の中で喜びを噛み締めた。


私は、与えられること無く、

贅沢だと責められた上、

精神の搾取しかされない様な育ち

をしている。


いくら先生でも…

って言うのは、

正直とっても怖かった。


大事な物だなんて言ったら、

何をされるかわからないし、

何の権利もないから、

何でも差し出さなきゃいけないのに、

あげられないって

言ったらどんな目に遭うかわからない。


〇〇できないっていう

否定的な意味の『ない』という言葉

を使うことへの恐怖が強烈に強かったので、

震えがって乖離してシャットダウンは

もうしないけど、

今書いていても、

恐怖だったとしきりと思うので、

強調しておいた 笑笑


だけど、恐怖感とは

別に

先生は、シェリーメイが

私の大切なものだとわかっていて、

たぶんきっと私の言葉に激情して

怒ったり殴りかかってきたりしない。

とは思えている私もいたので、

頑張って言ってみた。


返ってきた

『いくらなんでも、貴方から

それを取ろうなんて思いませんよ。』

っていう言葉も、

トラウマの先生が

私を馬鹿にしてって

怒って言ったわけじゃないってこと

もちゃんとわかったので、

感無量過ぎて言葉が出なかった。



次の週、

この話をトラウマの先生にしたら、

殆どの大人は、

例え小さな子どもであっても

譲れない大切な物

あること知っていますよ


って言った。


帰りの電車は大変だった。


まず、この言葉にひたすら驚いて感嘆。


殆どの人は、

例え小さな子どもであっても

譲れない大切な物が

あることを知っていますよ。


本当に?マジで?皆んな知ってるの?

・・・・・

この時、

本当にそうとは

全く思いきれなかったと思う。


今はだいたいそうだろうっていうのは、

わかる。わかるけど、

ビックリするもんね。

私には平和過ぎてピントが合わない。

いまだに。


次にビックリしたのは、

殆どの人はって言葉、


殆ど、殆ど、殆どの人⁉️


世の中の殆どの人が知っていて、

私の家では、

母、父、姉、私、全員

知らない。


人口比率‼️

って言葉が頭の中をグルグル回った。

この頃、
何かわかる度に、
わかったことをトラウマの先生に話すと、
先生はいつも、
『普通はこうよ』
を教えてくれたので、

私は帰りの電車の中で、
教えられた普通はこうよ
にひたすら驚愕して、

最後は必ず
人口比率‼️
って思ってた 笑

その度
凄くビックリしてた。

普通が一切ない。
普通を知らない育ちをしているので、
普通はこうなんて発想は、
思いつきようがが無いから

自力で気付いたことを
『普通はこう』
とはひっくり返せなかったと思う。

だから、教えて貰ったことに
とっても感謝している。

今は、自分でもひっくり返せるように
なってきました 笑

心理をネグレクトをされると
心の境界(バウンダリー)は
常に、脅かされてしまいます。

『私のもの』という感覚は、

財産を築いたり、

自分の大切なものを

守る為に必要なものなんだそう。



『私のもの』という感覚がないと、

自分の人生を築くことに、

達成感や充実感より義務感を強く感じ、

何ができても、何を手に入れても

味気なくて足りないような感覚が

いつもつきまとっていたと感じます。

それだけじゃないけど…


私の人生にあったのは、

不安と恐怖と義務感だけ。


私は意欲も希望も熱量も充実感も

無かったなと

今やっと淋しく思っています。


クローバークローバークローバークローバークローバー

理解できてくると
頭の中に色々なことが
溢れ返ってごちゃごちゃしてくるので、
整理してみた。

獲得できたもの一つに絞って、
順番に回復していく過程を書く
描き方が凄く整理できてスッキリする。

でも、
書けないことも出てくるから、
色々な描き方を、
自分の整理したい目的に合わせて
工夫してみようと思う。

前は
批判的、悲観的、否定的方向から
思考が始まっていたけど、
なんか最近、
随分、
自分本位になってきたなと思う。

今のCOと数ヶ月前、
話したことを思い出した。


前は、自分のいいようにやる
って考えられないことだったでしょ。

あ、うん。
あってはいけない。
って瞬殺で出てくる。

って。

この時でも、
私にしたら、
自分本位になってたんだけど、
自分の心、
ほぼ殺して生きてきたから、
奥が深い。

変わってくることが
ちょっと楽しくなってきた🌱🌱🌱
スクスク♫