小学校は恐ろしいところだったこと

の記事を投稿した途端、


私は、ずっと娘の学校生活の話を

うまく聞いてあげられなかったこと

を責めていた。


けど、

あんな責めること無かった。


下手くそだったことは否めない。

下手くそなんて可愛いものじゃ

全く無かった。


痩せ我慢して堪えて聞いて

大爆発して娘には嫌な思いを一杯させた。


それであっても、

あんなに自分を責めること無かったし、

下手で当たり前だったんだから、

大健闘賞だったわ。

と思った。


親に話しを聞いて貰ったことも無ければ、

まともで普通な日常生活も学校生活も

したことが無かったのだから。


ずっと子育て、

特に娘の学校の話を聞くことは、

修行

それも並のじゃなくて、

超苦行だと思ってきたけど、

それも

ちょっと違ったと思った。


修行ってそれがどんなに辛いものでも、

それをしている人を

本来、高めるものだよね。


自分を高めることが修行なら

私がしていたのは、


自分でする

自分へのパワハラ、

脳の過重労働

でしかなかったと気が付いた。


娘の話を聞こうと躍起になって

頑張っていた頃、


私は、ちょっとしたことを

きっかけにして

フラッシュバックが

多量に脳を流れる状態だった。


娘の話を聞いている時は、

私は常に副音声状態だった。


悲惨な虐待の

良いことなんか

まるきりない世界の映像を観ながら、

娘の学校での楽しい話、

友達との面白ろエピソード、

友達関係の悩み、

先生に言われた言葉への悩み、

バリエーションが超豊富な上、


いい体験は私には一度も体験が無いから

理解不能だし、


悩みは解決した体験が無いから、

自分の中にある、

誰にも話せず

辛い焼け野原みたいになった

傷が刺激されグチュグチュと疼くし、


大量に私の中にある不安と恐怖が

娘の不安に揺らされるし、


話しを聞いて貰ったことなんか無いから、

頑張って聞こうとすればするほど、

えもしれぬ嫉妬の炎がメラメラわいて

怒りが湧き出してくるし、


そうなったら今度は、

ろくに話しすら聞けていないのに、

過去をいつまでもひきづって

関係ない娘に怒って

って自分を責めはじめるし、

これに関しては、

今となっては、

自分で自分に科した冤罪だったと思うわ。


脳にフラッシュバックが起きてたんだから

起きた時は過去であっても、

私の脳は常に今、危機だったわけだし、

その状態で我が子に

同じ思いをさせないよう頑張るって

普通に超過酷で超腹立って当たり前だと思うから。

それがその思えないのが複雑性PTSDの脳だと思う。


もう脳も心もてんやわんやの

大渋滞、大事故状態だった。


あんなん

セルフ自己虐め、

セルフパワハラ、

セルフ過重労働

以外の何者でも無かったと思う。


それでもやらずにいられなかった

私が自分でわかるし、

なんとか頑張った分、

私の娘は私よりずっと生きづらさが

小さく済んだし、

一杯伝えてしまったけども…

私よりまともな成長したから

それで

良かったんだと思う。


もう責める気には一切ならないし、

もう絶対にあんな意地悪を

私は私にしない

と思うし、

しちゃうとも思うけど 笑

ほんと可愛いそうだったから、

私だけはあの頃の私を

手放しで労ってあげよう

と思う。


褒めてって書いたけど、

やっぱり褒めれるものでは無かったと思って

労うことにしました。


書いていたら

思い出したけど、

ずっと通っていた精神科の先生に

『貴方はぐったりしているのがいい。

元気になると死にたくなっちゃうからね。』

って言われたり、


今思えば、

働けるような状態じゃ全く無いのに、

働こうと頑張るから

『(仕事を)ブッチしちゃいなさい。』

って言われたりした。


それを言われた頃は、

早く元気にならなくちゃ

早くとにかく働けるようにならなくちゃ

そうじゃなきゃ生きてちゃいけない。


としか、

思っていなかったから、

先生に対して内心

強い怒りしか感じていなかったけど、

今となってはおっしゃる通りだった

とは思う。


だけど、

あの頃の私は、

先生の言う通りに出来なかった

とも思う。 


こうでなければ、

生きてちゃいけない。

が一切の緩みなく厳しかったから。


本当、酷い虐待を受けたと思うわ。

今更。やっと。


私が娘の話を聞こうと格闘していた頃は

これを先生に言われていた

超酷い状態は抜けていたけど、


それでも、

今、振り返って

娘の話を聞こうと格闘していた頃の私も、

やっぱり

娘の話を聞いているような場合

じゃ無かったと自分で思う。


だけど、

先生の言われたことが

聞けなかったように、

あの頃の私も、

絶対に娘の話を聞こうとすることを

辞めなかったと思う。



複雑性PTSDがあると

『経験値を積みあげる』

って殆ど出来ない。


脳がトラウマに反応しちゃうから

新しい経験が入っていかない。


だから、

一つのことに対する悩んでいる年月が

もの凄く長期だった。


凄く時間がかかったんだけど、

私が娘が小学校へ通う恐怖を

娘に言わなかったことで、


私にとっては

恐怖でしかなかった学校だけど、

娘にとってそうなるとは

限らない

ということに気づいた。


娘は、娘なりの学校生活をしていて

その頃には何故そうなるのか?

不思議過ぎて理解出来なかったけど、


嫌なこと、悩むこともあるけど、

楽しいこと、嬉しいこと、

面白いこともあって

それなりに小学校生活を

楽しんでいて、


娘が私のように

学校が恐ろしいところになるとは

限らないと思うことが出来た。


娘が、成人したので、

小、中、高、専門とトータルで、

娘の学校生活に

学校は恐ろしいところ

と思い込むような大事件

が起きることも無く学校生活を終了した。


私は、娘の言葉に

ひっくり返りそうな気持ち

がしたんだけど、


就職先の先輩がちょっと変な人で、

就職してから暫く

帰ってくる度、

先輩の言動への怒りを聞く係

をしてたんだけど、


この頃はカウンセリングなどの効果が

出ていて話を聞く負担が

そんなになく、


今まで聞いてあげられなかった

無力感を払拭し、


娘にも話しを聞かれることで、

自分が変わっていく変化を

体験させてあげられたり、


娘の成長を見る楽しさを味わったりと


娘の話しを聞くことが

今までとは逆の経験に

なりはじめていたと今振り返ると思う。


その頃に、

娘ちゃんが、

『私はずっと

人に恵まれていて

あんな変な人

見たこと無かった。』

って言ってたのポーン


もう何というか

ドヒャーン

って気持ちだった。


親子でこうも

人生での人間関係での体験が違うって、

不公平過ぎやしないかい

と真面目に思ったよ私。


だからといって

娘に私がしたような思い

をして欲しいとは思わないから、

良かったとは思うし、


小さな頃から娘を見ていて

それなりに色々な人が居たとも思うしね。 


ご本人様が、

私は、人に恵まれていた。

と思っているのに水を指すようなことを

言う必要なんか全く無いと思うし、


私はずっと人間関係に苦しんできたけど

今振り返ると、

1番おかしな人間って

ダントツぶっち切りで

私の両親だし、

その次、

両親以外の身内御一行様なんだよね。


それ以外の人って、

トラウマに反応して恐怖を

一方的に強く感じていただけで

今思えば、

私の両親のように

人とは思えないほど非道な人も、

親ほどのことを私にした人も

居なかった


チーンって気持ちするけど 笑


私は被虐者だから

大人になってからも

親に似た人に引っ張られたり、

まあまあひっどい目にも遭ったし、


子ども時代も、

やっぱり普通の子より、

嫌な体験はしやすくなる。


大人も子ども、一部の人たちは、

言い返せない親に守られていないことを

見越して、

憂さ晴らししてくる人っているから、

それなりに色々あったけど…ね。



娘が、小学校3年生の時、

学校から帰ってくるなり、

無表情な顔で、

手に持ったミサンガを

引き出しにしまいながら、


足につけていたミサンガを

運動会の組体操の練習で

『目立つから取りなさい』と先生に

言われて(取るしかなくて)とった。』

って、言ったの。

抑揚の無い声で。


内緒と言って

教えて貰っていなかったけど、

娘はその年齢の普通の女の子がするには

痛々しいほど切実な願いを込めて

足にミサンガをつけていた。


手につけていたら、

学校の先生に

取りなさいと言われてしまう可能性

があるから。

それだけ大事な願いだったんだよね。


『それでいいの。』

って思わず言ったら、


娘ちゃん、

弾けたように泣き出して、号泣した。


その娘の姿を見たとき、

『私にはコレ(母親の共感)

が無かった。

コレ(母親の共感)が

無かったから、

私は、

大量のフラッシュバックに

あったんだ。』

という思いが胸の中に叫ぶように広がった。

※この当時コレが何かわからなくて、

コレが無かった。コレが無かった。

って思ったので、そのまま書いた。



恐ろしいこと、辛いことが起きた時って

脳が凄いエネルギーを作り出す。


感情を受容される安心が無いと、

そのエネルギーが外に排出されず、

身体に溜まったままになる。


そのエネルギーが

様々なトラウマ症状や

ネガティブな思考の原因になるので、

エネルギーの排出って大事だと

複雑性PTSDの治療をしている間に

しみじみ思うようになったから、

余計にこの時の自分の思ったことを

ほんとその通りだったと思う。


私の場合は、

親が虐待親だから、1番酷いこと、恐ろしいことを

私にしていたんだから、

共感なんかできる訳ないわな💢

と思うけどね。


娘ちゃん、

しこたま泣いた後、

うってかわって、

ミサンガを切れと言った先生に

怒りだした。


怒っている姿を見た時、

この子はきっと大丈夫だ。

大人になってこの時のことが

フラッシュバックすることは

きっと無い。そう思った。


娘が小さかった時、

怒っていたこととか、

すっごくショックを受けていたこととか、

小学校、中学校の頃、

悩んでいたこととか、

時々、思い出して話すと、

割と高確率で

娘ちゃん覚えていないんだよね。


その度、

私が聞いていたからだって思ってた。


私の場合、

聞いたストレスを

娘にぶち撒けてしまっていたので

ママの悪口を聞いてくれる人は

必要だったと思うけど。

私も結構、聞いたけどね。


だから、

娘ちゃんと私の人間関係に関する

嫌な思いをしたかっていう

本人其々の主観からくる

『人間関係に恵まれているかどうか?』

は、気持ちを聞いて貰えた体験の差

でもあると思う。


私が娘が小学校に通うことが

怖かったことで

もう一つ、

凄く長い間、

問答と葛藤をしまくっていたのが、

玄関でのいってらっしゃいのお見送り。


今、思うと、

玄関=私の最大の修行道場だった 笑


まずいってらっしゃいを

されて育っていないから、

いってらっしゃいを

どうするものかが

私には体感的に無い。


その上、

娘を毎朝、

私自身が恐怖以外感じない

恐ろしい小学校へ行くために

見送るんだよ。


いってらっしゃい以上の

何かを言いたい思いが凄くあった。

なんというか

小学生になった頃は


毎朝、

今生の別れ

の心情だったんだよね。私。


これ小学校が恐怖だけじゃなくて、

ありとあらゆることが

子どもを産んでから恐怖と不安で

一杯だったこともあると思う。


娘が交通事故に遭う不安

も朝は常に感じてたし、

娘が学校に行く途中で

交通事故に遭ったら、

心配されたり、

大変ねと労われたりするんだろうと

今、やっとわかるけど、


私、ずっと

娘の身に何かが起きたら

尋常じゃなく

責め抜かれる恐怖を持ってた。


それ以外、起きることが

この世にあるなんて

夢にも思っていなかった。


だから、

私にとっては

小学校に娘を見送ることは

毎朝、今生の別れだった。


なので、

いってらっしゃいと

もう一つ、

何かをいつも言いたい気持ちにかられて

だけど、

これが、難しい。


まず、情緒的に豊かな育ちを

一切していないので、

思いつくレパートリーが

そもそも殆どない。



いい子でね。

って言うと、

私のいい子の意味が

親が気にいるように心を殺し抜け

って意味だったので、


娘を追い詰める‼︎

って自分で言って直ぐに思うから、

いい子でも悪い子でも貴方はいい子よ。

とか言って

自分でも何が言いたいんか

訳わかんないことになるし、


頑張ってねっていうと、

これまた頑張り過ぎて

燃え尽きてるから

自分で言っといて

自分が追い詰められちゃって


娘との境界も脆いから

娘も追い詰めると思ってしまうので、

そんなに頑張らなくても…

ってまた、こんがらがる。


ずっと、

そんなことを玄関で繰り返し、

もう一言が

無難な気を付けてねに落ち着いた。


この問答を私は、

どれくらいの期間していたか?

覚えていないけど、


なんか学校であったりすると

頑張ってね

って言いたくなるし…

なんだかんだ結構長い間、

ごちゃごちゃ一人問答してたと思う。


娘が一人暮らしをはじめてから

私がしょっちゅう、

お見送りに

気を付けてね

を言っていたことに関して、


『朝に気を付けてって、

言うのは、

意識するからいいんだって、

何かで言ってた。』

って言ってた。


娘ちゃんはどんないきさつで、

私が朝に

気をつけてね

と言っていたかを知らないのだけど、


娘にとって、

朝の気をつけてね。

はいい記憶になっているようで、

こういうことをお互いできる人

(お付き合いする人)がいい

と言っていた。


いつから?

なんでそうなったか?

よくわからないけど、


娘が一人暮らしする前の

いってらっしゃいは、

頭撫で撫でとハグだった。


書いていて気付いた。

先輩のことで、

行きたくないを押していく勇気?

エネルギー?が

いったんだと思う。


頭をいつも撫でろと

こっちに向けていたのを思い出す。


可愛いかったラブ


長くなるので、

今日はここまでにします。