休憩時間にはチョコレート、の思い出 | ゼロ詩人の自己愛エクリチュール

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このブログは社会的基準に合わせられない自分の存在価値を自ら認め、さらには愛するために、自己愛の完成に向けての書き物である。葛藤と矛盾する気持ちを認め、自分を限りなくどこまでも許せるまでの旅である。
詩で世界に、未来に貢献する活動を行っている。


ARTとスピリチュアルを通して、自分を好きになるお手伝い のワタナベトモコです。


幸せをさがしているときは、幸せが何なのか?わからなかったと思います。


そういう時は、自分が持っているものの多さにも気がつかないものです。


私がそうでした。照れ


これはベッドサイドの私の椅子と本



探求の末ようやく自分と対話することを何より信頼できるようになって、外に起こることに振り回されることが激減しています。


きょうは小さな話しだけれど、わたしにはとても幸せな感じがしたので記録して、シェアします。


夕方母に電話をした時に聞いた話しです。
父は10月に天寿を全うして旅立ちました。その父の同僚の仲良しの方から、きょう、チョコレートが送られて来たということのはなしです。


その方は葬儀にも参列してくれたのに、またわざわざチョコレートを、送ってくれたのです。


モロゾフのチョコレートに手紙が添えて送られて来たそうですお願い


いつも休憩のお茶をするときには必ずチョコレートを一緒に食べていた暖かな思い出があり、チョコレートをみたらまた一緒に食べたいな、と思い、お供えして欲しいということが書かれていたそうです。



私は会ったことがない方ですが、父と同年代のその方が、かつて働き盛りのころ、日々の休憩時間に一緒にチョコレートを食べたことを大切に心に持っていてくれたこと、そして亡くなった友人にその思いを届けてくれたことに、心の中に温かいものが湧き上がりました。


わたしにとってこれは幸せの感触です。


そして父と同僚の友人が過ごした日々のなんということのない休憩時間の思い出が、はるかに時が経ってもいい思い出として残っているというのは、そのひととき、その日々は幸せなものだったということを、私にしらせてくれたのです。


私たちは日々の小さなことの中にある豊かさや、幸せに気がつくことが出来ないのですね。
それをこうして気がつかせてくれる機会を与えてもらい、父と友人の方に感謝を感じました。


また明日も朝が来てくれることを信じて眠るのです。