「お疲れ様」

 いつも通りの挨拶が交わされると、オーケストラのメンバーたちはそれぞれの楽器を片付け、帰途につく。もう、外は暗くなっている。

 でも、僕は動けない。

 がらんとしたホールの中で、僕は一人でうつむいていた。

 今度の演奏会で、僕はコンダクターとしての初舞台に立つことになっている。もともと僕が音楽を始めるきっかけになった先生が年のため、耳が少し遠くなって引退したからだった。

 練習も上手くいってるし、メンバーとも仲良くやっていけている(と思う)。先生にも「本番もこの調子で」と言われたし、不安は何もないはずだ。

 だけど……。

 今の僕の指揮は、先生そっくりだ。

 自分らしくと思えば思うほど、先生の姿が浮かんで消えなくなる。まるで僕は操り人形のように、先生の動きと同じにタクトを振る。

 こうなってしまうと、もう駄目だ。その日の練習は、そのまま終わってしまう。

「……はあ」

 僕は、何度目になるか分からなくなったため息をついた。

 家に帰る途中で、サイズを直してもらっておいた燕尾服を受け取りに、洋品店に寄った。

「はい、仕上がっていますよ。こちらになります」

「どうもありがとう」

 店主からケースを受け取ると、僕はお礼を言った。その僕の顔を見て、店主は少し目を細めた。

「何かありましたか?」

 店主が訊いた。

「悩み事があるようですね」

「そう――でしょうか?」

 僕は図星を指され、あいまいに微笑んだ。

「そういえば、初めてのコンサートでしたっけ。緊張しているのかもしれませんね」

 店主が、笑顔で言った。僕は、そうですねえ、とうなずいて見せた。

 早くここから帰りたい。

 そう思いながら、僕が店を出ようとすると、店主は

「もしよかったら、これを」

 と一枚のはがきを渡した。

「もしかしたら、力になれるかもしれません」

 そう言うと、店主は他の人の接客に行ってしまった。

 店主の言葉を信じたわけではないけれど、僕ははがきに書かれた店へと向かっていた。どうせ、家に帰っても一人で夕飯を食べるだけだし。


 その店は町から少し外れたところにあった。普段、こっちの方にはあまり来ないから、こんなところに店があったなんて知らなかった。

 店からは蜜柑色の明かりがもれて、道を照らしている。

 僕は誘われるように店に入った。

「いらっしゃいませ」

 店主だろうか?レジスターの置かれたカウンターの向こうから女性が出てきた。

 僕は軽く頭を下げると、店内を見回す。

 どうやら雑貨店のようだった。懐かしいものや、何に使うか分からないもの、思わず見とれてしまう綺麗なものが並べられている。

 そういえば、昔、カレイドスコープが欲しくて駄々をこねたことを思い出して、僕は少しほほえむ。

「今日は珍しい香茶が入ったんですよ」

 店主(だと思う)が話しかけてきた。

「いえ、あの、洋品店のおじさんに紹介されて」

 僕が言うと、店主はにっこりとほほえんだ。

「ああ、何か、気に掛かっていることがあるんですか?」

「ええ、まあ、何ていうか――」

 初めて会った相手に、悩みを打ち明けていいものだろうか。僕は少し迷った。

「今度、演奏会でコンダクターを務めることになりまして。少し、緊張しているのかもしれません」

「そうですか」

「ええ、そうです、きっと」

 僕がうなずくと、店主は僕の瞳をじっと見つめた。

「自信を持ってください」

「え?」

「あなたはあなたなんですから」

 店主が言った言葉に、僕はかっと赤くなった。まるで心を読まれたみたいだ。

「でも、気にしないようにと思えば思うほど、だめなんです」

 思わず、僕は言ってしまった。

「気にしないようにできれば、それが一番いいのだけど。無理、なんでしょう?」

「…………」

 僕が黙っていると、店主はカウンターの後ろにある棚から、何かを手に取って置いた。僕もカウンターに近付いてみる。

 それは、小さな硝子瓶だった。

「これは薬なんです」

「え?」

 僕は思わず訊き返した。どう見ても硝子瓶の中身は、色とりどりのコンペイトウにしか見えない。

「これを演奏会の前に飲めば大丈夫。心配ないです」

「……本当に?」

 僕は瓶を見つめたまま訊いた。店主は自信ありげにうなずいた。

「お代は?」

 僕は瓶を手に取ると、そう訊いていた。

 店主は首を横に振る。

「効果があったときは、ここで何か買って頂ければそれで結構です」


 あの雑貨店に寄った後、僕はどういう風に家に帰ったのか覚えていない。

「開演十五分前です」

 控え室はざわついている。

 とうとう本番だ。

 少し迷ってから、僕は鞄の中に入れていたあの硝子瓶を取り出した。

 そういえば、飲む量を聞いていなかった。

 どうしようと考えてから、そんなに多くないし、とりあえず全部飲んでみることにした。

 思い切って飲む。

 甘い。

 やっぱりこれは、ただのコンペイトウなのだろうか。

 ぼーっと考えていたら、ぽんっと肩を叩かれた。振り返ると先生が立っていた。

「せ、先生っ」

 もごもごと薬を飲み込むと、僕は姿勢を正した。

「今日は楽しみにしているよ。リラックスしてやりなさい」

「はい」

「君らしい指揮を、いつも通りに」

 先生の言葉に、僕は首を振った。

「僕はまるで、先生の真似をしているようで、だめなんです」

 つぶやいた僕を見て、先生は目を丸くして、大きな声で笑った。

「何を言っているんだ。君はとても君らしいじゃないか。楽団の皆も、君の指揮は元気があっていいと言っていた。自信を持ちなさい」

 オーケストラの準備が整い、僕は舞台へと出て行く。

 大きな拍手が僕を迎え、僕はお辞儀をする。

 振り向いて、僕は大きく深呼吸をして、目を閉じた。

 先生の姿が浮かんだ。

 でも、それはさっきの先生の姿で、僕は目を開ける。皆が僕のタクトを見つめている。僕は姿勢を正し、胸を張った。



 

 20020714初稿  20080128改稿