グローバリズムの妄想の補遺その9
世界経済が危機にあるというコンセンサスはまだない。超国家組織と主流派の政党は、アジアの不況は沈静化できると考えている。世界経済の徹底的な改革が必要なことは、理解されていない。このような理解がいまだにないことが、将来に対する悲観主義の理由だ。
世界の主流である考え方によれば、アジア危機は、起きるはずではなかった。このような世界観によると、自由な資金の移動が、経済効率を最大にまであげるように働くはずだ。インドネシアのように、そのために経済全体が破壊される場合でも、そうだ。現在有力となっている世界観では、経済効率は、人間の幸福と切り離されている。
経済哲学の根本的な変化が必要だ。市場の自由は、それ自体が目的ではなく、その場しのぎの手段であり、方策なのだ。市場が人間に奉仕すべきものであり、人間が市場に奉仕するのではない。グローバルな自由市場では、経済手段を社会的に管理して、政治で支配する機能が、危険なほど失われている。
超国家組織の中では、市場原理主義の可否が問われ始めている兆しがある。資本は自由に移動できなければならないとする定説や、「ワシントン・コンセンサス」のような教義は、しばしば批判の対象となっている。それにもかかわらず、英米式自由市場が、至る所で経済改革の手本となっている。世界経済が一つの普遍的な市場にならねばならないという思想の正当性については、いまだに問題となっていない。
どの経済理論にも、自由市場の力に対する決定的な説明はない。自由市場は、西洋文明に何度もあらわれるユートピア思想だ。世界的な自由市場には、普遍的な文明という西洋の啓蒙思想があらわれている。それが、特にアメリカで、自由市場が好まれる理由だ。それはまた、現在の状態を、ひどく危険なものにする。
グローバル化が(すなわち、距離感をなくすような新技術が世界中に普及すること)、西洋の価値観を世界中に行き渡らせることはない。多元社会を元に戻すことが不可能になる。ますます世界経済が相互につながることの意味は、一つの経済文明の成長ではない。永久に異なるままの経済文化の間で、生活様式を、探さなければならないだろうという意味だ。
超国家組織の課題は、多様な市場経済が繁栄できるような規制の枠組みを作り上げることだ。現在行っていることはその逆だ。多様な経済文化に対して徹底的に作り直せと、強制しようとしている。歴史をひもとくなら、グローバルな自由放任が簡単に改革できるという希望を裏付けるものはない。最初にあらわれた自由市場の場合、西洋の政府による正統派支配を揺るがすためには、大恐慌の大惨事と、第二次世界大戦の経験が、必要だった。これまでに経験したものよりもさらに大きな影響を及ぼす経済危機がくるまでは、グローバルな自由放任以外に可能な選択肢が出現するとは考えられない。おそらく、グローバル自由市場を支えている経済哲学が、完全に放棄されるのは、アジアの不況が、世界の大半に広がったあとだろう。
アメリカの政策に根本的な変化がなければ、グローバル市場のあらゆる改革案は、無益なものとなろう。現在、アメリカは、世界中の司法権について何でも口を出すことを、自国の国家主権に対する絶対的な執着と、結びつけていている。そのような方法は、グローバル化によって生まれた多元主義の世界には、もっともふさわしくないものだ。
アメリカの政策によって実際に起きることは、グローバル市場の不安定さに耐えられなくなったとき、他の国が、一方的な行動をとるだろうということだけかもしれない。その時点で、グローバルな自由放任という、ずさんな体系は、崩壊し始めるのだ。
グローバルな自由市場という構想は、衰退する運命にある。この点で、他の点と同様に、ユートピア思想の社会工学による二十世紀に行われたもう一つの実験である、マルクスの社会主義によく似ている。どちらも、人類の進歩は、ある一つの文明を目標にしなければならないとしている。どちらも、近代経済が、様々な変種となる可能性を、否定し、一つの見方を世界に押しつけるためには、人類は苦渋に満ちた大きな代償を払ってもかまわないとする。どちらも、必要欠くべからざる人間の必要性のために、挫折した。
もし、歴史に学ぶなら、もうすぐ、グローバルな自由放任が、取り戻せない過去のものとなると思わねばならない。他の二十世紀のユートピアと同じように、グローバルな自由放任は、その犠牲者もろとも、歴史の記憶という穴蔵へ、のみこまれていくだろう。