グローバリズムの妄想の補遺その7 | なんでも日記

グローバリズムの妄想の補遺その7

日本は、独特の経済文化を維持できるか

 

 日本は、アジアで唯一の経済大国であり、今後もその地位を維持するだろうと予想される。アジアで最初に工業化された、世界最大の債権国として、アジアのどの国よりも優位に立っている。高い教育水準と莫大な資金プールがあるため、二十一世紀の知識ベース経済に対しては、おそらくどの西側諸国よりもふさわしい状況がある。だが、金融危機と経済危機に直面しているために、日本独特の経済文化の存在そのものが、危うくなっている。

 日本の経済問題を解決しなければ、アジアの危機は悪化の一途をたどるだろう。その場合、世界経済は、日本に続いて、デフレと不況に陥る危険がある。現在日本では、一九三〇年代にアメリカやその他の国で起きたような規模で、資産価値が下がり、経済活動が縮小している。日本のデフレを退治しなければ、アジアと世界がデフレを回避する見込みは、ほとんどない。

 日本の経済問題に対して西洋が作成した処方箋は、矛盾だらけだ。今も昔も、超国家組織が主張しているのは、日本は、西洋のモデル(より具体的にはアメリカのモデル)に従って、金融制度と経済制度を再構築しなければならないというものだ。日本の経済問題に対するこのような解決策は、全面的なアメリカ化である。このような主張をする人からみると、日本が、経済問題を解決するのは、日本人であることをやめるときだけだ。

時折、このようなことが率直に表現されることがある。アメリカの新保守主義に属する雑誌に、満足げな記述があった。「アメリカには、ペリー提督の役割をしてくれるIMFがついている」。

 そのような西洋化を強行する政策の結果は、独特でかけがえのない文化が絶えるだけではすまない。過去半世紀の間、日本のめざましい経済進歩とともに存在した社会のきずなを、破壊することになる。ところが、現在のデフレ危機は解決されない。

 西洋の政府が日本に要求しているのは、(先進国の中では、日本だけということらしいが)、ケインズ政策をとることだ。西洋のコンセンサスによれば、日本は、減税と公共投資を行って、巨額の財政赤字を計上しなければならない。一方で、西洋の超国家組織は、日本の労働市場を解体せよと要求する。その労働市場は、過去五十年間、完全雇用を確保してきた。日本がこれらの要求に応じるなら、その結果は、問題を一切解決することなく、西洋社会の解決不可能なジレンマを輸入するだけかもしれない。

 日本に西洋諸国が現在突きつけているようなケインズ政策は、デフレを退治するのには役立たない。そもそも、そのような政策は、先の見えない時代に貯蓄を殖やす日本人の文化的傾向を、全く考慮していない。現在の状況では、さらなる減税で自由になる金も、消費に回らず、単に貯蓄が殖えるだけだ。経済不安が広がるにつれて、通常の水準をはるかに超えるところまで、日本の貯蓄は膨らんでいる。減税が恒久減税とされても、さらに貯蓄率が上がるだけだろう。

 減税によって日本で増えた手取り収入が、効率よく投資されるとしたら、外国への投資となるだろう。赤字国債発行による資金調達も、経済に期待された効果をもたらさない。資本がグローバルに動くとき、高水準の公的借り入れが、国内経済活動を刺激するという保証はない。

ケインズも気がついていたように、赤字財政という政策が成果をあげるのは、閉鎖経済に対して実施されるときだけだ。

資本が自由に移動するとき、そのような政策は、ほとんど効力を持たない。その結果、日本は流動性の罠に陥る。ケインズ政策では、それを救えない。西洋の政府は、日本の体制について、資本移動を自由化し、金融を規制緩和せよと、執拗に迫っていた。しかし、それによって、現在日本に押しつけているケインズ政策の効果がなくなるとは、気づかなかったようだ。

 日本が西洋の要求通りに労働市場の規制緩和をすすめるなら、さらに事態は悪化するだろう。もし西洋のモデル(とりわけアメリカのモデル)に従って、労働市場の規制が完全に緩和されるなら、失業率は倍増し、もしかすると三倍にまで達するかもしれない。それは、もちろん、わざとやっていることだ。しかし、労働者の不安を増大させ、それによって日本の貯蓄傾向は強まる結果となろう。消費を刺激するという減税のねらいは、かくして、挫折する。

 おそらく、日本政府が消費を刺激できる唯一の策は、何とかインフレを起こして、貯蓄が得にならないようにすることだ。しかし、他の国では、インフレに対抗して、さらに貯蓄することがある。たとえ、金を失うことになろうとも貯蓄する。日本人が、そうはならないとは限らない。そのような政策の結末がどのようなものであろうと、円の暴落は避けられない。なぜなら、アジアで他の国が、とりわけ中国が、それと同じようなことをして返すことになるからだ。これは、西洋の政府が何よりも恐れる結末だ。

 日本の労働市場におしつけようとしているフレキシビリティが、政府に強制しているケインズ政策とうまく折り合わないことを、西洋の政策立案者は、理解していない。さらに、日本の需要を喚起するのに最も有効となる可能性のある政策が、アジアで競争的通貨切り下げを引き起こし、それ故アメリカとヨーロッパでは保護主義を引き起こすことになるとは、気づいていないようだ。

 労働市場の規制緩和によって起きるべくして起きた失業率上昇によって、日本では、西洋諸国の時よりも、ひどい社会不安がおきるだろう。十分な福祉がなければ、社会不安が起きる。西洋諸国の経験からは、この状態が急激に生じるものではないとわかる。

 西洋ほどの大量失業を日本へ持ち込むなら、最終的に西洋式の福祉を確立しなければならない。だが、西洋の政府は、反社会的な下層階級を創り出すという理由で、福祉を削減している。再度繰り返すが、日本が要求されているのは、西洋のどの国も解決できない問題までも持ち込むことなのだ。

 日本に西洋式の福祉が登場してもしなくても、失業率上昇の結果は、単に貧富の差が大きく広がるだけだろう。完全雇用を放棄するように主張することで、超国家組織が要求しているのは、これまで日本の社会的平和を維持してきた平等主義なタイプの資本主義を、捨て去ることだ。

 株主の利害を何よりも優先する西洋の資本主義とは対照的に、日本の資本主義では、社会と政治の正統性は、雇用創出に由来する。西洋主導の超国家組織から絶えず要求されて日本政府が導入する政策のために、この独特な日本的資本主義は、維持できなくなるかもしれない。

 一九九八年の『ビッグバン』で、金融機関の規制が緩和されたが、日本にとって、これは、運命の一歩だった。金融の規制緩和と、日本の雇用中心資本主義の維持は両立できない。日本企業の業績を評価するとき、外国の銀行は、日本の雇用を維持するための配慮よりも、株主にとっての価値を基準とするだろう。日本と西欧企業の共同事業の場合も、英米基準による業績と生産性をあてはめようとする、一方的な圧力がかかるだろう。時とともに、金融の規制緩和が、計画通り進むなら、これまで日本の完全雇用を支えてきた銀行と企業の相互ネットワークは、解消される。

長期的な影響力をもつこのような圧力は、日本に西洋のような失業を、確実に持ち込むことになる。そのような成り行きは、五十年代以降、社会と産業の対立を抑えてきた不文律の社会契約が、終わることを意味する。この社会契約が、長続きするような形で、更新されなければ、日本社会の独特なきずなは、壊れ始めるだろう。日本は、他のアジア諸国に続いて、政治不安に陥るかもしれない。その時点で、現在から見ればはるか遠い先のようにみえるが、国家の行く先が、突然、急激な変化を起こす可能性は排除できない。

 日本の経済問題を解決するとすれば、独特の経済文化を解体するのではなく、修正するものでなければならない。日本経済に対して、絶え間なく突きつけられる西洋の処方箋では、日本が遅かれ早かれ、西洋の一員になると仮定している。日本の歴史に、そのような期待の裏付けとなるものは何もない。日本の歴史からわかるのは、国家の政策が、突然変化した例が幾度かあることだ。しかし、そのいずれの場合も、独自の文化を放棄したためしはない。明治時代の近代化が成功したのは、主に日本による近代化だったという理由による。同様に、経済近代化が今日の日本で成功するとすれば、強制された西洋化の政策でない場合だけだ。

 社会のきずなを犠牲にする経済改革は、日本の選挙民に正統なものとして受け入れられないだろう。

日本の労働市場は、職業不安を大きく増大させずに、もっとフレキシブルになれるだろうか? なんとか再び経済成長するためには、他の先進工業社会を真似するべきだろうか? 或いは、商品や、サービス、ライフスタイルの質が向上する意味をあらわすように、経済成長自体を、再定義するべきだろうか? これは、今後、日本が答えを出すことになる問題だが、現在の危機に対する解決とはならない。

 デフレが悪化し、グローバルな不況のきっかけとなる見通しは、遠い先でも、架空の議論でもない。それは、現実の、間近に迫っているものだ。西洋の政府が日本につきつけている政策を実行すれば、デフレを退治することなく、第二次世界大戦後社会のきずなと政治の安定を維持してきた日本の社会契約を崩壊させてしまうかもしれないというのが、現状の危険だ。

 市場を規制緩和せよとする西洋の圧力によって、日本の政府には、政策の選択肢がほとんどなくなる。そして、世界経済に重大な脅威を及ばさない選択肢は、皆無となる。