待ち合わせの何分前につく? ブログネタ:待ち合わせの何分前につく? 参加中

そりゃあ、方向音痴の私は、超~早く目的地を探してから近くでのんびり、が定番。
今回だって、もう4時前には田原町にいて、東本願寺の看板がある門まで見つけて、
だからこそのんびり合羽橋を堪能してた、はずだったんですが。
4時45分ぐらいになったので、先ほど確認した門のところに戻ってみると







え、ええええええっ????なんで門が閉まっているの?( °д°)・・・ボーゼン

だって、今日だよ、今日だよね??

出演者のおひとり・尺八奏者の渡辺淳さんにいただいたチケットにも、そう書いてあるし。。。


しばしボーゼンとしていたら、お寺の関係者っぽい方が門をがちゃがちゃしてたので
「あの、声明のイベントって入り口ここじゃないんですか?」と聞いてみた。
すると
「あっ、ここは横門って言って正面じゃないんですよ。一緒に行きましょう!」
ぐるっと反対側の方に連れて行ってもらえました。あ~、良かった。
ちゃんと正面の入り口には出店があったりにぎわってて。。。私、どこ見てたんだか(汗

そんなトホホ顛末を乗り越え(爆)
ようやく本堂を目の当たりにして、かなりホッとしました。
ベンチに座ると中からリハーサル中の声が漏れ聞こえ、気分も上がってきます。
そもそも、こちらの催しに足を運ぶことが出来たのは、さっきもちらっと書きましたが
以前に演奏の場でご一緒させていただいたりした、尺八奏者の渡辺淳さんから
ご招待券をいただいたからなんですね。
親鸞聖人の七百五十回御遠忌という非常にメモリアルな節目の法要。
期間中の様々な催しの中でもこの「御遠忌フェスタ(声明と邦楽の夕べ)」は
東本願寺に伝わる伝統的な声明(坂東曲)の披露と、淳さんをはじめとする
次世代をになう邦楽演奏家の皆さんのアイディア溢れる奏楽との、またとないコラボレーション。

「声明」のイメージってどんなこと思い浮かべます?
私が以前に聴いたことがあるのはどこのだったっけな。。。
たぶん天台宗かな、雅楽とコラボしたのとか何度かホールで聴いたことがあって、結構好きなんだ。
そんな「倍音浴びて帰ろう」なんてイメージがまぁ、根底からひっくり返されてしまうほどの衝撃だったなぁ。
今回観た「坂東曲」は、始めは拍節的なお経から始まり、途中でなんと頭をぶんぶんと前後左右に
揺り動かしながら叫ぶような、絞り出すような発声で正直ぶったまげました。

参考


つまずいたって、起きればいいよ。


他にも「東本願寺 坂東曲」で検索をかけてみるとけっこう動画出てきました。

「声」の持つ爆発的なエネルギー。
「信仰の心」なんて生ぬるい感じじゃなく、裸の自分をさらけ出すような生々しさを持つ、人間の痛切な叫びであり。
声を出すっていうことは、自分の心を解き放ってさらけ出すような行為でもありますもんね。

そうそう。「人間には欲望ってのがありますでしょ。この世の苦しみや悩みは自分の思い通りにならない!って思うからなんですよね。そんな心の有り様を変えていきましょ、っていうのが親鸞聖人の教えなんですね。」
イベントの始まりにそんなお話もあったんだけど。。。

一種のトランス状態?とも思えるような動きと音に目が離せなくなりました。

そんな、原始的ともいえる人間の営みを今に伝える坂東曲のお勤めに、邦楽器での演奏パートを組み合わせた非常に興味深いイベントでした。

前半、声明が始まる前には箏と尺八と唄、そして三絃に笛も加わった四人の奏者による演奏。
独奏ありアンサンブルもあり、どれもステキだったんですけど
淳さんの「鹿の遠音」は最高でした!!心が揺さぶられる感じ。

第二部の声明の時には、同時に演奏するのではなくお坊さんたちの入場前と入場時、間奏曲のような場所、そして退場時とその後の余韻を作るような役割で、まさにプレリュード・インテルメッツォ・ポストリュード!
この催しのために淳さんと箏の鈴木真為さんによって作曲されたまさに世界初演。

邦楽器の響き、日本らしさを存分に湛えつつも、音の重なりやリズム、そして楽器同士の掛け合いなどは時折、ドビュッシーの音楽になぞらえても良いような幻想的な美しさ。
坂東曲のちょっぴり泥臭いような迫力と、器楽の奏でる彼岸の調べは対照的でありながら、最後はすべての人の思いを遠くに運んでくれるような、静かに祈るようなエンディングで。

しばし、うっとりと聴き入ってしまい、終わってしばらく拍手が出来なかったです。

あ、帰りには同じ場所に来ていたKちゃんJちゃんと合流して帰りました。
初めて来た場所で知った顔を見ると本当にホッとします。。。(/ω\)トホホ。。。