『ふろしき坊やとけい子ちゃん』

 

 ボクのふるさとは、ボクが小学校に入学した1954年(昭和29年)に市制を敷いた中国山地の南に位置する広島県の小都市である。都市と言っても当時人口3万人を数える程度で、大きな産業観光の目玉もない農林業中心の村・町の寄せ集めだった。

ボクの生家は、東西を山で挟まれ、中央を西城川(中国地方一の大河・江の川の支流)が流れ、市に移行する前は高村だったが、市になって川の東西で高町と川西町に分かれた川西町にあった。高町には、国鉄芸備線(広島駅~備中神代駅)と、国道183号(広島市~米子市)が山裾を走っており、町らしい雰囲気があったが、両町とも農村の佇まいを残していた。

 

 ボクは農家の子で、7人兄姉の末っ子だった。家はお世辞にも裕福と言えず(どこの農家も似たり寄ったりだったが・・・)、小学校に入った時、ランドセルを買ってもらったが、ビニール製の安物で、扱いが悪かったのかも知れないが、二年生になって間もなくして、背負いベルトが破損してしまった。修理するほど立派なものでもないし、新しく買い替える経済的余裕もなく、しばらくは、片方だけ肩に掛けていたが、夏休み明けから、教科書などの勉強道具は「風呂敷」に包んで学校に通った。幸い学校は給食だったので、弁当を包む必要はなかったが、包み方が悪いと教科書がこぼれ落ちるのには閉口した。低学年には風呂敷で通よう児はいなかったが、五、六年生には一人、二人いたので、そう抵抗もなかった。

 

 1955年のある日の給食時間前、ボクは机の上も片付けずに、友だちとふざけ合っていた。そのとき、担任の若い女の先生が

「ふろしき坊や・・・(はやくかたずけなさい)」と言った。

ボクはこの言葉に反射的に教室を飛び出していた。先生に悪気はなかったろうが、「貧乏人の子」と言われたような気がした。ボクは、恥ずかしさか腹立たしさか分からない気持ちが爆発したんだろう、隣にあった用具室入れのような部屋に籠った。

 どれくらいいたろうか・・・給食時間が終った頃を見計らって教室に戻った。ボクの机の上に教科書で覆われたパンが残されていた。恐らく、ボクの隣の席のけい子ちゃんが取り置いてくれたのだろう。ボクはけい子ちゃんにお礼も言わずパンと教科者を風呂敷に包んで学校を後にした。       

ふろしき坊やとけい子ちゃん  (2 of 2) へ続く