ドジャースの大谷は現在、一刀流ながら今日もと言うか10日振りに14号ホームランを打って、ホームランダービーの2位につけている。

大谷ばかり注目されているが、広島東洋カープの森下投手も立派な二刀流である。昨夜のオリックスとの交流戦でも、先発し7回投げ無失点4勝目をあげたが、ヒットを2本打ち通算打率.375と野手以上の率を残している(セパ合わせてもダントツの首位打者・・・規定打席に到達していないが)。

 

僕の二刀流(1 of 2)

 

o1406134815445212571.jpg@@1406@1348

 

 昭和三三年は長嶋茂雄選手が巨人軍に入団した年である。その前年、まだ長嶋選手を知らない小学四年生の僕はバットとソフトボールだけの遊びに夢中だった。ある日の放課後、校庭で五、六人の友人とソフトボールの「ノーバンゲーム」をしていた。これは、ピッチャーの投げるボールを打って、そのボールをノーバン(直接捕球)かワンバウンドしたものを取ったら、バッターになれるというもの。

 バッターで打ちたいので、フライが上がると、そのボールめがけて皆が一斉に駆け寄る。そのとき、僕は、背の高いO君と衝突、左目の下にO君の前歯が当たり、大怪我をした。教員室で傷口を洗い鏡を見ると二㎝位の幅で白っぽくなっている。骨が見えているのかと思った。先生に応急手当をしてもらい、バスで市の中心部にある外科医院に連れていって貰った。五針縫ったが、この間、痛いとひと言も言わず、先生に褒められた。

 帰りは、父が学校前のバス停まで自転車で迎えにきてくれていた。父も先生も、素手でボールを取るので突き指も絶えない危険な「ノーバンゲーム」を止めろとは言わなかった。止めろと言われても、校庭の奥のフェンスオーバーの誰にも取られないホームランを打つのが快感だったので、止めなかったろうが。

 

 小六の時、一つ歳上で野球の上手な先輩が、中学に入ったら野球部に来いと誘ってくれた。本気で野球部に入ろうと思い、母に相談したら、近所で野球部に入っている子がいて、いろいろ話しを聞いてきて、野球部に入るには、・ユニホーム ・スパイク ・グローブ ・バット など、当時の金額で一万円近くかかるという。とても、そんな金はないので、中学に進学して、野球部ではなく、卓球部に籍をおくことにした。しかし、卓球部の練習にも顔をだすことはなく、昼休みや放課後は、小四のとき大怪我をした「ノーバンゲーム」に興じた。

 僕が打つ時は一番遠くで守っている人の更に上を超えるのが楽しみだった、ただこれは、遊びに過ぎなく、本格的な野球となると、話しは別である。ピッチャーの投げる球も速いし、軟式とは言えボールが当たると痛い。何よりも軟式野球の実践経験がないので、試合では使いものにならないだろう。

 

 しかし、一度はちゃんとした試合に出たいと思っていた。そのチャンスは、三年の春に開催された全校球技大会の支部対抗野球でめぐってきた。全校を四支部(地区)に分け、一年生から三年生までの混成チームでトーナメントを行う、全校男女合わせて二百数十人の学校で、四チーム作るので、約二割の生徒が参加する計算になるが、僕は一,二年生の時は声すらかからなかったので、三年のこのときが、最初で最後の試合だった。

 守備位置はセカンド、打順は六番だった。相手チームのピッチャーは野球部のエースのA君。球は速いが軽いイメージがあった。二回の表だったか裏だったか、僕に打席が回ってきた。そして、A君の投じたボールをワンツーのタイミングで打った。手応えはまるでなかった。ボールは左中間方向に高く上がって、グランド奥の五㍍位の崖を越えて、松林の中に消えて行った。

 野球部の試合でも見たことのない、大ホームランだった。ベースを回りながら、この快挙を目撃し、将来の証人になってくれる人がいないか、探したが誰もいなかった。ただ、一人、僕の家の裏に住んでいる従妹にあたるお姉さん(その時、学校の事務員をしていた)が観戦していたので、今晩家に帰って

 「今日、てっちゃんが、凄いホームランを打った」と、話題にしてくれ、それがそこいら中に広まると思っていたが、その後、何事もなかったように過ぎ、人生初めての快挙は自分史の中でひっそりと生きている。

(僕の二刀流(2 of 2) へ続く)