「文芸社」が「人生十人十色大賞」のエッセイを募集しているので、肩慣らしに『さようなら芸備線』と題した短編を投稿して、次は長編にチャレンジしようとしたら、投稿規定に一人一作と言うのがあり(新聞の公告には記述なし、Webで注記)、短編の投稿は撤回した。撤回しなくても、採用されることはないだろうが、ブログの更新を半年近く休んでいたので、これを機会に復活することにした。

芸備線「高駅」の駅舎と駅名標

(写真は級友の池田タケノリくんのフェースブックから借用)

 

『さようなら芸備線』(1 of  2)

 

 私のふるさとは、私が小学校に入学した昭和二十九年に市制を敷いた中国山地の南に位置する広島県庄原市である。市と言っても当時人口三万人を数える程度で、大きな産業観光の目玉もない農林業中心の町の寄せ集めだった。私の生家は、市の中心部から北東に十数㌔離れ、比婆郡西城町(平成十七年、庄原市に併合)と接していた。

 家の周りは、東西を山で挟まれ細長い盆地のようになっていて、中央を西城川(江の川の支流で中国山地の三国山を源流にする)が流れ、川の東側は高町で、国鉄芸備線(広島駅~備中神代駅)と、国道183号(広島市~米子市)が山裾を走り、西城町との境界をなす山合いに吸い込まれる。

 家は川の西側の川西町にあった。家から見て南側に、小学校や芸備線高駅のある高町に通じる道があるが、小高い丘が西城川河岸までせり出して視界を遮り、川西町を家のあった上川西と下川西に分けている。上川西側の丘の側面はコンクリートで固められ、狭い道路が付けられていた。丘の上には共同墓地、川と接する突端は「切通し」と竹藪になっており、子ども心にこの道を抜けるのは恐かった。

 私は農家の子で、七人兄姉の末っ子だったので、大きくなったら、芸備線の列車で都会へ出ていくのだろうと、「切通し」の先から突然現れたり、その向こうに消えていく蒸気機関車を見る度に思っていた。

 

 小学校に入学したとき約七〇名の同級生がいたが、その中で一番気になった、けい子ちゃん(仮名)が、クラスの集合写真で私の隣に写っている。気になったので隣に座ったのか、隣にいたので気になったのか、多分、後者だろうが、気にはなったが、話しかける勇気もなく、入学して二年が過ぎた春に、けい子ちゃんの家族が、ドミニカに移住することになり、クラス全員で高駅に見送りに行った。

 ドミニカがどこにあるのかも知らなかったが、芸備線の列車に乗って故郷を出て行くと言うことは、どこか遠くへいくんだろうなぁと思った。後から知ったことだが、けい子ちゃんの家は私の家の真正面の高町側にあった。直線距離にして五百㍍くらいだ。上り列車で去ったので、列車の中から今朝まで住んでいた家や風景を見ながら「さようなら」したんだろうなぁと思うと切なくなった。

 別れの辛さは、子ども同士とだけではない。二番目の兄が神戸から帰省したときにも覚えた。公務員だった兄は暦どおりの勤務で、まとまった休みがとれなかったようで、盆正月に帰っても、多くて二泊、ほとんどは一晩しか滞在しなかった。母は、「帰っても、直ぐ行くけぇつまらん」とよく言っていた。兄は神戸に戻るときは、芸備線上り列車を使っていた。家の庭から、列車の窓やデッキがよく見えたからであろう。

 列車は高駅を出て数分もすれば、家の前を走るので、母はそれを待っていて、列車に手拭い振った。兄もデッキに出て手を振っていた。母は列車が見えなくなると手拭いで涙を拭っていた。私もそれを見る度に、胸が痛んだ。

   (続く)