나의 인생(私の人生) | ぽちのブログ

나의 인생(私の人生)


親父が3回結婚してたり、絶縁状態の兄貴がいたり、俺は1977生まれなのに、弟が2000年生まれだったり、純日本人なのに、韓国に親戚がいたり、あまり過去は振り返らないタイプなのですが、はたからみたら複雑そうな俺の稀有な人生を一回整理してみよう。

産みの母親によると、俺を取り出してくれた産婆さん?が『こんなに整った顔立ちの赤ん坊は見たことがない!この子は将来大物か、大悪党になるに違いない!』と言ったそう。

大物路線はなさそうだから、残るは大悪党か。
くにゃんすれぎレベルでは大悪党にはなれないから、何れにしても現時点では中途半端だな。

三つ子の魂、百まで。が理由なのかわからないけど、今でも覚えてるのが、物心つく前から親父は2人目は女の子がほしかったーとよく嘆いてた。女の子がほしかった親父の願いを叶えたいのか、はたまた、幼馴染の女の子と一緒に遊ぶ口実がほしかったのかはわからないけど、とにかく女の子向けのおもちゃを欲しかったのを覚えてる。超合金より、シルバニアファミリーほしがるみたいな。
まぁ、今も男であるということは、後者だったんでしょうね。

引っ越した後、親父は祖父の電気工事会社を継いで、昼は電気工事、夜はスナックハイブリッヂをやってた。
わかります?ハイブリッヂ。うちの苗字、高橋ですよ。笑
母親も近所の別のスナックで働いてたと思う。母親のスナックでよく『氷雨』を歌わせてもらってた記憶がある。
昼も夜も親父がいないから、従業員のおじさんがよく汽車(電車ではなく汽車)を見に近くの駅まで連れて行ってくれてたなー。結局そのおじさん、親父に借金したかなんかで、電気工事会社のシャッターにスプレーで『ひとでなし』みたいな落書きして消えていったけど。


小学校の入学式はおばあちゃんと行ったから、多分その時点で母親とは離婚してたんだと思う。
いつも夜中に喧嘩してた両親だったけど、ある日起きたら母親いなくなってた。
しばらく母方の親戚の方が家に来て面倒みてくれましたね。すげー厳しい人で20時には寝かされるんですよ。んで、寝かしたあとにファミコンやってる人だったので、兄貴とこっそりファミコンやってるとこ見に行ったり、1階の受話器をあげておいて、2階の電話の受話器でめっちゃ興奮してファミコンやってる声を盗み聞きしたりしてました。笑
(昔の家電って、双方の受話器上げたら内線みたいに話せたんですよ)

ただ、このおばさんの厳しさのおかげでもあるんだけど、それ以外にも、小さい頃から悪いことすると必ずバレるという星の下のおかげで大悪党にならずに済んだのかも。街でゴミを捨てれば、近所のおじさんに注意されたり、そんな思い出たくさんある。本当数えきれないほどたくさんの人たちのおかげで今の俺があると思う。


おままごとの経緯もあるのか、ピラニアの博(後述)の影響なのか、とにかく男の子より女の子と遊ぶほうが楽しかった。俺の時代の小さい頃って、男子より女子と遊んでると、イジられたりするんだけど、俺は『は?将来は女性と結婚して結婚生活送るんだから、女子と遊んで何がおかしいん?お前らガキすぎなんじゃん?』って鼻で笑ってた。小さい頃からなんかそういう冷めてるところがありましたね。俺にはなんでも話しやすいと言ってくれる女性の友達が多いのは多分こういう経験からでしょうね。

そのあとの大きめのできごととしては、9歳の頃、車に轢かれたことかな。
複雑骨折で3ヶ月入院してた。
あ!毎日ノート持ってきてくれる女の子いたな!
俺、丸顔が好きで、その子痩せ顔だったから、思いには応えられなかったんだけど、優しい子だったなー。あとはお見舞いに来たのに松葉杖奪って転ばす女の子とか。複雑骨折ですから!
お見舞いに来てくれた子の思い出も女子ばっかだな。
自転車乗ってた時に事故ったから、退院後もしばらく親父は自転車を隠して乗せてくれなかったなー。
実際ノートなんてたいして見てなかったので中高と進んでく上で『あれ?俺こんなの習ったっけ?』って思うのは大体小学校3年でみんなが勉強してたことでした。

その翌年か?
親父が入れ替わり立ち替わり、3人ぐらいの女性を家に連れてきてた。どうやら俺と兄貴に2人目の母親が必要だと思ったらしい。お前ら誰がいい?って聞かれたのをはっきり覚えてる。俺は3人目の丸顔の一緒にお風呂入ってくれた人が好きだったんだけど、決断する日の前の日に、ポテトチップス一箱持ってきてくれた人を選んでしまった!好きなだけ食べていいよって言われて、サワークリームオニオン味を1人で一袋食べ切った幸せがたまらなくて!
(その日の夜、消化不良で吐いたけど)
これが一つ目の大きな人生の選択かなー。

ポテチのおばさんも優しかったですよ!
2人目のお母さんです。
とにかく俺をかわいがってくれて、職場に俺を連れていってくれたり、人見知りの俺を林間学校に行かせてくれたり、いろんな経験をさせてもらいました。誰も信じてくれないけど、俺、今でも人見知りですからね。
ちなみに、兄貴はその人に懐いてなかったですけどね。
2人が結婚して、二、三年経ったぐらいかな。
新しい兄貴ができました。え!?弟じゃなくて兄貴!?笑
そうです。兄貴です。2人目のお母さんも一度離婚していて、三人子供がいたんですね。男2人と女1人。上2人は成人していて独立していたか、なんかで一回挨拶したっきりその後は知りませんが、末っ子が離婚をきっかけにグレたかなんかで、ウチに転がり込んできました。絵に描いた不良でしたよ!笑
布団の下にエロ本隠してたので、よく拝借してましたが。笑

そんな兄貴ともう1人の兄貴も複雑な家庭事情を背景に、順調にグレましたが、俺は全くグレなかったですね。友達と原チャリ盗んで遊んでたぐらいのかわいいもんです。
小学校は卒業生代表、中学校は入学生代表。絵に描いたような優等生でしょ?まぁ別に優秀だったわけじゃなくて、学級委員を決める時に推薦で指名されちゃう大人しい同級生がかわいそうだったのと、とっととホームルーム終わらせて帰って遊びたいから立候補してたら代表になっただけですけどね。
親父に中学校の入学式の挨拶相談したら、そんなもんテキトーでいいんだよ。これ持ってけって言われて入学前の中学校に持っていったら全部直されて10倍ぐらいにボリューム増やされましたけどね。

中学生の頃はなんかあったっけなー。
野球部の部活に明け暮れてましたね。
あ!中2の頃、初めて彼女ができましたね!
ピアノが弾ける優しい女の子でした。
付き合った理由はポッキー奢ってくれたからでした。ポテチといい、ポッキーといい。。
慎一郎(飼ってたシベリアンハスキー)の散歩がてら彼女の家に遊びに行きましたねー。
理由忘れましたが別れたあと、別の女の子(ブラスバンド部)と付き合ったら、その子脅されたらしいので、初めて付き合った子はヤンキーだったみたいですね。ピアノ弾けるヤンキー。多分半年ぐらいは付き合ったはずです。次の子と別れた理由は高校の公立の志望校が違くて、私立の志望校が同じだったんですよね。『付き合ってたら、私、公立をわざと落ちそうだから別れる』みたいなことを言われた気がします。
そんなこんなで高校に行くわけですが、中学校の野球部のクソ暴力コーチが高校のOBだったんですよ!『お前、あそこ行くなら俺が口きいてやんぞ?』って言われたのがすげー嫌だったのもあるし、甲子園常連校で野球やるほどの情熱もなくなっていたので、ソッコー断りましたね。
んで、公立は冒険できなくても、最悪私立でその子と同じ高校行けたらという思いと、その私立は兄貴が行ってる学校だったので、高校の偏差値で兄貴に負けたくない一心で中3の夏期講習からようやく塾に行きました。んで、夏期講習終わって、9月1日に塾に行ったら席がありませんでした。塾から家に電話したら、『え!?まだ続けるの!?』って。その当時はなかった言葉だったけど、毒親だっのでしょうか??笑
どうにか塾は続けさせてもらいましたが。

その後、高校ではアルバイトに明け暮れるつもりだったのですが、勧誘の勢いに負けて軟式野球部に入りました。甲子園に出た親父の『兄弟のうち1人はプロ野球選手になってほしいなー』の願いを叶えたい一心で小学校の頃から野球を始めて以来、野球を楽しいなんて思ったことがなかったので、この自由な環境の野球は本当に楽しかったですね。一年生から試合にも出てたしキャプテンにもなりましたしね。
ただ、野球が好きだったのか、はたまた入学後すぐマネージャーを好きになって一緒に帰る日が楽しかったのはわからないですけどね。
もうすぐ付き合いそうだったですよ!マネージャーと!その時、中学校の同級生(ブラスバンド部)と再会して告られるんですよ。その子は志望校の子と同じくぐらい好きで、どっちにするか悩んでた子なんですよ。志望校の子から『好きな子誰なの?』の質問にお前って安直に答えたから付き合ったからタッチの差でしたけどね。マネージャーの子はやめて、その子にするわけですが、そこでまた志望校の子が登場するわけですよ。高校入学後わずか2ヶ月間でドロドロでしたね。んで、すれぎな俺は志望校の子とヨリを戻すわけですが、3ヶ月でまた別れましたね。理由は八景島シーパラダイスに行こうと誘ったら、『遠いね。』って言われて萎えて別れました。千葉から八景島、大して遠くないがな。

その後は卒業ぐらいまで、恋愛禁止のブラスバンド部の純子に片想いしてたので、たいした話はないですねー。別の子と海行って遊んだら、さらに別の子がヤキモチ妬いてウチに泊まりにきたぐらいですかね。んで、あの学校のブラスバンド部、本気で恋愛禁止で仲間同士で先生にチクるんですよ!笑
なので、本気で部活をやってる人は本気で恋愛禁止してました。
三年になって軟式野球部のキャプテンになった時に、新入生向けの部活紹介で、他の部活の奴らがらんにゅうしてきて即興コントみたいなのして、バカウケしたのが、今までで一番多くの人を笑かした瞬間ですかね。人見知りだけど面白いことをしたり言ったりするのは子供の頃から好きでしたね。
そして、ある日アルバイトしてたら親父が大事な話があるってバイト先の隣のデニーズで話をしたんですよ。
『こうすけ、最低限必要な荷物持って家出るぞ』って。どうやら2人目の母親と離婚するようです。
一旦どこかに泊まってその後、預けられた親戚の家から高校に通いましたね。
その時に遊んでた友達が本当に楽しい奴らで、しょっちゅう外泊してたんですよ。叔母や従姉妹には心配かけて申し訳なかったです。言うて従兄弟は高校生の俺を連れて友達の家にいって、まだタバコすら吸ったことない俺にレゲエ聞かせながらマリファナ吸わせてたので、どっこいでチャラですけどね。笑
ただ、4人いる叔父や叔母が小さい頃から片親だった俺をよく泊まりに行かせてくれたし、面倒を見てくれたのも俺がグレなかった要因の一つだと思います。特に末っ子の叔父の奥さんは子供ができなかったので、すげー可愛がってくれました。お風呂も入れてくれましたし。(そのお風呂基準はなんなの一体?)それでも叔父は全員離婚してるのでうちの男系は離婚家系なんでしょうね。兄貴も俺も離婚したので。

野球部引退後のバイトはTSUTAYAでした。
この時の先輩達も悪かったですね。
普通に車で飲みに行って車で帰るし、煽るような輩がいたらとことん追詰めるし。
刺激的な毎日でした。バイト先のおねーさんもいろんな意味で遊んでくれましたしね。
ただ、親父の『兄弟のうち一人は大学行ってほしいんだよなー』の願いを叶えるため、と、世界中を股にかけるツアーコンダクターになりたいから専門学校に行かせてくれと頼んだら『お前の兄貴が専門に行って金使ったから金ない』って言われて断られたことを理由に、突然大学を目指します。親父に大学行ってほしいなら、一人暮らしが条件!んで、予備校行かせてくれ!って言ったら、一人暮らしはしてもいい、だが予備校代は無い!と。え?あなたBMW乗ってますよね??まぁ、しゃあない!金がないなら独学で!と二宮金次郎ばりに学校の図書室で勉強して、家に帰って一回寝て夜中勉強して、みたいな生活してたら、死にたくなりましてね。どこかのビルの屋上から飛び降りよう!あ、でも、万が一に人が下にいたら巻き添えにするから無理だ、とか、電車に飛び込もう!あ、電車は遺族にすげー金かかるらしいからダメだ、とか、いっそ手首を切って!あ、うちのばあちゃんが見つけた時にショック死したらダメだ、とかで生き延びました。まぁ、そんなこんなで推薦(三年の一学期の評定では推薦なんて夢のまた夢だったけど、推薦もらえるぐらい上げたんですよ、一応)の受験日当日に盲腸になりました。退院してからくそー、もう一学科!と思って受けたら、まぁ、独学ですしね。試験対策なんてないですしね。答案用紙見ながら、あー落ちたわーと思って、帰りに制服から私服に着替えて東京競馬場のG1見て、財布すっからかんになって電車賃も足りずに電車で隣の人に百円もらえませんか?って言って断れました。自分のバック漁ったら百円出てきたおかげでキセルせずに帰れましたけどね。合格発表すら見に行きませんでした。同じ大学受けた前述のうちに泊まりにきた友達についでに見てきてってお願いしたらポケベルに『ダメでした』ってきましたね。悪いお願いして申し訳なかった。
そのポケベルみた直後に親父の家(その時は親父が今の母親と同棲してて、おればあちゃんと住んでたので)に留守電に、『今から就職相談室行ってくるねー。』入れたの覚えてます。
その今の母親が韓国人なので、私には韓国に親戚がいるんですよ。その母親と親父の子供が21歳の弟です。
就職相談室行ったら、『ココね。佐々木総業』って書類渡されました。よく見たら『代々木総業』でした。おい!生徒の人生舐めてんのか!会社名ぐらいは正しく伝えろよ!しかも一社かよ!選択肢ねーのかよ!んで、面接行って就職決まりました。
そんなある日、純子と仲がいい隣の席の深堀さんが休みがちになったんですよ。後ろの席の純子が娘で深堀と俺が父母役。ここでもおままごとみたいなことしてました。深堀の病名は白血病でした。
年明けて同級生が進路が決まり始めた1/31に一時退院して家にいると言うので家に電話したんですよ。当時は携帯ないからね。2時間ぐらい他愛のない会話をして、『また来年の今日電話するからな!その時は元気でいろよな!』のようなことを言った記憶があります。深堀は笑いながら『そろそろ寝るね。』と言って電話を切りました。

4月から就職して十日ぐらい経ったある日、同級生から連絡がありました。『深堀死んじゃったよ。』って。まぢで意味わかんないし、人が死んだのに電車の中、笑い声だらけだし(それは俺の都合)、信じられねぇ!つって、受け入れられず葬式も墓参りも行きませんでした。一年後に同級生から命日の寄せ書き見してもらいましたが、『ずっとあなたを忘れない』とかキレイゴトだろ!とか思って全然内容入ってこなかったけど、『美穂、痛いのなくなってよかったね。』で号泣しました。そのコメントの書き主見たら純子でした。
いまだによくわからないのですが、命日に何かのイベントをするって何??
死んじゃった命日に悲しいこと思い出すより、誕生日に『生きてたら何歳だな。誕生日おめでとう。』のほうがいいじゃん!!って、深堀の誕生日に墓参りするようになったのが、俺が友達の誕生日を大切にするようになったきっかけです。ばあちゃんの命日も覚えてなくて、誕生日に墓参り行くのもそれが理由。

佐々木総業(違)での最初の勤務は工場勤務した。仕事簡単だし覚えること少ないし、バブル明けの不況真っ最中で1日の業務の大半は午前中で終わるし、やることないし、鉄骨の間で昼寝してたら、先輩にバレてテニスボール投げられました。
いや、仕事くれよ。って思ってたら、配車センターに転勤になりました。配車センター時代はまだ運転免許も持ってなかったので、仕事しながら免許センターに通いました。そんな免許センターのある日。
実技講習のあと、タバコ吸ってたらさっき近くで教官に怒られてた女の子が泣いてたんですよ。『怒られてたね。大丈夫?』って声かけたら、『こうすけくんですよね?』って。はぁ!?何!?新手の詐欺!?全然知らないんだけどって思ってたら、幼稚園の同級生でした。俺、小学校の時に引っ越したから前の町の人で覚えてる人少ないし、なんでこの子俺のこと覚えてるんだろって思ってたら、幼稚園の時に俺のこと好きでしたとか。ここまでで俺のモテ期終わってますね。きっと。
んで、とんとん拍子で付き合いましたね。

その子と付き合った初めての俺の誕生日。
免許も取って車も買って、迎えに行ってる最中に人を轢いてしまいました。不幸中の幸いでしたが、軽症でした。後日お詫びに菓子折り持ってご自宅を訪ねて行ったら、娘さんと俺が同い年ということになり、『おーい!』って呼ばれて降りてきた娘さんから『え!?こうすけくん!?』って。え!?デジャブですが、実話です。しかも、教習所の彼女ではなく、前述の松葉杖を取ってケラケラ笑ってたあの子でした。

話は変わって
産みの母親のエンディングです。
11歳の頃、親父から『2人目のお母さんができて数年経ったことだし、お前らが20歳になるまでは産みの母親と会うのをやめてほしい』と言われました。あとで知りましたが、2人目のお母さんが嫌がったみたいですね。
そろそろお気づきかもしれませんが、私は小さい頃から親父のことが大好きで親父の願いを叶えるのは宿命だと思っていたので、きっぱり会いに行くのをやめました。兄貴は2人目の母親とソリが合わなかったし、母親っ子だったので隠れて会ってたみたいですけどね。

俺も母親好きでしたけど、子供を手放してでも離婚を決断した母親を許すことができなかったので、20歳になってもあえて会いには行かなかったのですが、ある日会社に電話がきたんですよ。電話に出たのが俺だと気づいたあの人はドラマみたいに『ふふふ。わたし。』でしたよ。許せてはいなかったものの、この人がいなければ俺はこの世にいないし、成人したことだし一度は会うかと思って会いました。なんかくすぐったいような変な感覚でしたね。母親には彼氏がいたので一緒に食事もしました。良い人でしたよ。不倫でしたけどね。
こんなエピソードがあります。
何かは忘れましたが、ある日何かがほしいけど買おうか悩んでるって話を両親にしたんですよ。
そしたら、産みの母親の彼氏さんと、今の母親は『買えばいいじゃん』、親父と産みの母親は『金ないんだよね。』でした。もちろんそれぞれ別々の場で、ですよ?なんか血の繋がりなんだなー。って思いました。ただ、産みの母親は酒癖が悪くて酔うと電話してくるんですよ。(俺の酔うと電話癖はこのDNAだな)しかも親父の悪口で毎回同じ話。俺は親父が大好きなので、すげー嫌でしたね。さらに嫌だったのが、親父にも電話して『こうすけがあれこれこんなことを言ってた』みたいなことを言うんですよ。親父からも『勘弁してくれ。』って言われたので、距離を置きました。そしたらある日兄貴が飯行こうって東京に来たので、その場に行ったら母親いましてね。『電話出ないから、お兄ちゃんに頼んだ。』みたいなこと言われたので『言ってなかったけどおれは根本的には俺を捨てでも離婚を選んだあなたを許せてない。俺は親父に育ててもらったから親父が嫌がることをされるのも嫌だから、もう会わない。』と伝えました。『わかった』と言ってましたが、そのあと鬼電来たので、着信拒否設定しました。産みの母親を着信拒否。これに関しては人に話すと賛否両論ですが、今でもこの判断は間違っていないと信じてます。なぜなら、
そのあと親父に電話して、『こうすけは、あなたにあげるから!』ってブチ切れてたらしいです。
あなたのものでもないし、ずっと親父のものです。俺は。着信拒否したことが正解だったと思わせてくれてありがとう本当に。
その後、親父と一緒に仕事してた兄貴も親父と喧嘩して辞めて、うちの戸籍すら抜けて母親の籍に入りました。借金取りにも追われていたらしく、今となってはどこに住んでるかも知りません。

仕事の話に戻りますが、ある日初心者マークをつけながら1人で運転して神戸に行かされました。黄色いランプ付けてる車みたことあります?誘導車というのですが、新幹線の車両とかとんでもなく長い荷物を運ぶ時に、先導する車のことです。その誘導車に初心者マークをつけて(ありえねーだろ)、千葉から神戸まで高速道路を運転して、神戸から千葉まではひたすらトレーラーと一緒に下道を走って帰ってくるという武者修行みたいな二泊三日の仕事でした。彼女は行きの高速からちょいちょい電話(もう携帯ある時代です)をかけてきて、寂しいって泣きじゃくっていたのですが、帰りの富士山ぐらいになったら、もう寂しいから別れよう元カレと寄りを戻したって言われました。んで、別れましたね。
その後は友達と遊ぶ時間が楽しくてしばらくフリーが続いたあとに会社の先輩(かつ高校の先輩、かつブラスバンド部)と付き合いまして、一年ぐらいで別れました。そろそろお気づきでしょうか?俺がブラスバンド部好きなことに。
そんなこんなで、その会社を辞めたきっかけは一個前のブログに書いてありますので、時間があったら読んでください。

んで、最初の奥さん(同じ職場の別会社の人)と結婚するんですね。その当時遠距離恋愛してた別の彼女は旦那と離婚協議真っ最中だったんですけどね。いや、離婚理由は君ではないからね。とは言ってましたけどね。とはいえ、『俺、子供できたから結婚する。』って言ったら目が点になってましたね。遠距離恋愛でメールなので、目ではなく、文字が点、かもしれませんが。まぁ、やっぱり俺ここでもすれぎですよね。
ぬな、くって、ちんっちゃ、みあね。

んで、嬉し恥ずかしデキ婚生活が始まるのですが、一年半で離婚しました。理由は『合わない』と。交際期間ゼロ日婚でしたからね。まぁわからなくもないか。親父に電話したら、『仕方ない。人生という道の途中で、石ころにつまづいたと思うしかない。』と。さすが3回結婚してるだけあって、離婚を石ころに例えるんだね!でも、電話の向こうで泣いてましたけどね、親父。
ただ、親父のことがあったから俺は絶対に離婚しない!って決めてたので、俺自身は相当ショックでしたよ。でも、産みの母親ですら俺を捨てたんだからという出来事のせいかどうかわからないのですが、子供の頃から諦めが良すぎるんですよね。執着心が足りなさすぎるんです。それでも、娘とも会ってほしくないと言われたのが一番悩みましたが、自分自身の経験もあり、娘にもし次のお父さんができた時(実際、元嫁すぐに元カレとヨリを戻してたみたいですしね)に俺の存在が邪魔になりたくない。まだ物心ついてないから俺のことすぐ忘れるだろうし、そのほうがこの子にとって幸せなはず。という未だに正解かわからない結論を出しました。俺が産みの母親を許せない理由を書いたじゃないですか?だから、俺も許せないんですよ自分を。結果だけ見ると俺も娘を捨てたのと一緒なので。俺が自分をすれぎすれぎ言う理由がこれです。現在15歳。俺の遺伝でアトピーじゃないかな?花粉症じゃないかな?同じB型だから、何かと頑固で誰かと衝突してないかな、とかそんなことばかり考えますね。

離婚後に『もう、しばらく女とは付き合わない!』って決めたのですが、2週間後には今の奥さんと付き合ってました。いや、カブってないですからね!
奥さん、その直前まで俺の会社の後輩と付き合ってましたから。

奥さんとの出会いは、1人目の奥さんのお兄さんの飲み友達だったことで、知り合いました。
さすがにそれはまずいだろ!と何人かに説教されましたけどね。その飲みに近所に住んでた会社の後輩もよく呼んでたので、2人が付き合い始めました。まぁ、すぐ別れるだろうとは思ってましたけどね。

奥さんには娘が2人いて、今29歳と30歳です。
上の子は旦那(日本人)がシンガポールで仕事をしている関係で、シンガポールに住んでいます。下の子は旦那(日本人)がニュージャージーで仕事をしている関係でアメリカに住んでいます。
付き合ってから1年ぐらいしたある日、愛媛に長期出張に行くことになり、1年弱ぐらい愛媛で仕事をしました。この経験が東京以外に引っ越したいと思ったキッカケですね。本当に素敵な街でした。道後温泉に夏目漱石が『坊ちゃん』を書いた時に、『この土地はその中に気候が温暖で、土地が豊穣で、人々が穏やかで。』のようなことが書かれているものがあるのですが、初日にそれを見てからというもの、本当にそれを実感する毎日でした。とにかく人が暖かい。東京から来てるというとすごく優しくしてくれるんですよ。自転車通勤だったし、ちょっと電車に乗って街に出れば小さい範囲に必要なもの全て揃ってるし、東京に帰りたくなかったぐらい最高の日々でした。二、三か月に一度彼女(今の奥さん)の抜き打ちチェック(突然アポなしで飛行機で飛んでくる)があった以外は。笑
今回の転職先もまずは愛媛で探したんですけどね。
やっぱり大都市以外は総じて給料が安い。
物価も家賃も安いから給料下がってもいいかな、とも思いましたが、最終的には断念しましたね。

ただ、今回の転職するにあたって奥さんは日本全国どこでもいいと言ってくれました。これ、すごいことなんですよ。結婚してる先輩とかに話すと一様に驚かれます。

愛媛から帰ってきてからは、一旦前に住んでた家に戻りましたが、家賃もったいないねって話になり、奥さんの家(義父が購入して奥さんが家賃払って住んでた家)に転がり込みました。んで、付き合って5年で結婚して、今が結婚10年目ですね。

愛媛の経験もあったし、途中途中で嫌なこともあったので、二、三回は転職を考えたこともありました。ただ、やっぱり会社が好きだったし、何より会長が大好きだったので、決断までには至らなかったですね。去年あのことがあるまでは。うちの会社、コロナに対して過剰に反応する会社でしてね。去年後輩3人と飲み会した時に自分含めて3人が陽性になったんですよ。そしたら後日それを理由に部長昇格がなくなったと聞かされました。はっ!?って思いません?どんな理由だよ!って。
俺は入社以来、最低でもこの会社で部長になるって決めてたし、もちろん仕事はきっちりやるし、仕事以外の平日も休日も後輩社員とのイベントを企画したり、先輩との付き合いも含めて全て会社を優先してきた。それがその理由!?(あとで別の理由を聞いたら結局は他の先輩より先に上げられないからって理由もありました。結局年功序列かよ。ってね)
かよってのもあったんですが、そのあとがタチ悪かった。散々俺を飲みに誘ってた社長がぱったり誘ってこなくなったんですよ。なんか腫れ物に触るような扱い?本人も誘いづらくなったって白状してましたしね。んで、去年の10月に接待の中で、上司が『こないだ会社のゴルフコンペをしたら飲み会でコロナが出たんですよ。こいつのせいで。』って言い始めたんですね。後輩との飲み会でのコロナとはまた別の話です。しかも、俺が開催した飲み会じゃないし、その飲みに社長もいたし。
翌日役員全員宛先に入れて『辞めます』メール出しました。このあと社長や上司と話し合いの場をもつわけですが、まぁ、ここでも、2人の情けなさが露呈しましたね。言った言わないの応酬です。ほとほと呆れてましたが、その日の朝会長室に挨拶に言った時の会長からの『こうすけ、頼んます!』でもう矛は収めてたんです。会長にそう言われたら俺は無理です。大好きなので。
一旦矛は収めたものの、坊主憎けりゃ袈裟まで、ですかね。一度地に落ちた社長への忠誠心を戻すことはできませんでした。実はこの社長は会長の長男なんですよ。大学卒業後、一度別の会社に就職していたのですが、12,3年前ぐらいに入ってきました。最初すげー嫌だったんですよ。大して人とコミニュケーション取らないくせに、息子だからってトントン拍子に出世していくし。なので、会長は好きだけど、息子は好きになれん!って先輩に相談したら『こうすけ、それが答えだ。』と言われました。会長が好きなら会長の息子を応援してやらなあかんってことです。その時は納得したので、それからというものの、息子の悪口はやめて後輩社員にも息子がよく映るように応援してたし、それこそプライベートも全て捧げましたよ。ただ、やっぱり元々好きじゃなかったんでしょうね。去年の転職騒動からはもう無理でした。一度嫌いになると粗探ししてしまうものなのか、もしくは、社長のボロが出始めたのか、会議でもイニシアチブが全く取れていないんですよね。先も読めないし、各部長からの報告に対するコメントも毎回同じことしか言えませんしね。会長は違いますよ。世の中の動向を察知してますし、コメントも勉強になることばかりですしね。賃上げもユニクロが大幅賃上げを発表する前から、賃上げの波が来るぞ、しかも大幅な賃上げが必要だぞって言ってましたからね。俺もこの年になって少なからず世の中が見えるようになってきたので、今年の7月時点で『世の中では既に来年の賃上げの話が始まってますが、来期の大方針(社長が大方針作って部長が自部門の方針に落とし込む)の検討指示に入っていませんがどうしますか?』って聞いたら返信は『別途追々考えます』でした。俺が『おいおい。。。』だわ。俺が言ってるのは給料あげて欲しいってことではなく、給料が上がるってことは何もしなければ利益が下がるんだから、売上を上げる方法を考えなきゃダメでしよ?今はどこも賃上げなんだから、ウチがジリ貧だったら今は売り手市場なんだから社員辞めちゃうよ?って言ってるんですが、結局12月時点でも何も動いてません。こないだようやく監査役から『賃上げの検討始めないと』って指摘が入ってましたが。つくづく辞める決断をしてよかったと思えるダメ社長ですわ。
んで、今年8月にあった部長打診に続きます。社長に呼ばれて(この社長の悪いところの一つですが、大事な話を居酒屋でするんですよ。普通はまずは会議室でやって話が終わったら、ヨシじゃあ飲み行くか!でしょ。)部長やってくれと言われたので、もう辞めるつもりだったので、大義名分がほしくて『部長やるなら今の現場体制じゃ無理。1人中堅をつけてください。』って言いました。『わかった。動く。』と言ったものの案の定無理でしたね。社長以外の役員が社長よりも年上なんですよ。なので、毎回返り討ちにあってくるわけです。一番しょーもなかったのが、ウチの会社はいまだにコロナを引きずってて、10人以上の飲み会は部長判断っていうしょーもないルールがあるんですね。これだけ街や店に人が溢れている中でですよ?これは役員の1人(私の上司)が譲らないルールで、社長も要らないルールだって言ってたので、『撤廃してください』って言ったら『撤廃する』って言ったんですよ。結局それすら私の上司の返り討ちにあっていまだにルール継続ですからね。会長もいらないって言ってるルールなのに。そんな小さなことすら自分の意思でかえられない社長って何!?でしょ!?あの人がやってる限り会社に未来はないし、最近激増してる人材流出もさらに激化するでしょうね。総務部長も社長がイヤになって12月末退職ですし。

そんなこんなで、私は12月末現場終了、1月有給消化で、2月はプーやって、3月から新しい会社に転職することになりました。

最後の決断理由は、一度きりの人生をあとで振り返った時に後悔したくなかったからです。これだけ複雑は俺の人生ですが、一度もあの時に戻りたいと思ったことがありません。その時々の決断を信じてるからです。今の会社に残り続けるのは後々後悔する決断だと思ってしまったので、転職を決断しました。

家も引っ越します。
仕事関係の人には誰にも言ってないのですが、こないだ天才田代さんだけには言ってしまいましたね。聞き出されたわけではないですが、この方には言わなければという気持ちになりました。あとは宮寺さんですね。
Instagram友達はストーリー見ていればそのうちどこに引っ越すかわかるはずです。


時は少し戻って一昨年の春におばあちゃんが亡くなりました。俺にはところどころ母親がいない期間があるので、本当に小さい頃から母親代わりのようなおばあちゃんでした。最後は家で転んで骨折してしまったことで入院となったことが原因なのですが、それもあって痴呆症も出てしまったんですね。小さい頃から大好きなおばあちゃんだったので、初めて俺のことがわからなくなった時は泣きました。おばあちゃんも最初はわかったりわからなかったりだったので『おかしいね、なんで、私、こうちゃんがわからなかったんだろ』って泣いてました。幼稚園の頃、救急車のサイレンが聞こえたらおばあちゃんに何かあったんじゃないかって心配になったおばあちゃん。小学生の頃、近所のジャスコ(今はイオン)に行くと帰る前に必ず電話くれて『何かほしいものないかい?』って言ってくれたおばあちゃん。ロッテリアでLバーガー買ってきてって頼んだら、エビバーガーが入ってて、『おばあちゃんはLバーガーってちゃんと言ったのに!』って普段全く怒らないのに、孫のために激おこしてたおばあちゃん。一緒に住んでた時に『将来結婚する人にこのコロッケの作り方教えてよ』って言ったら『このコロッケはずっとおばあちゃんが作るからいいの』って言ってたかわいいおばあちゃん。痴呆症ひどくなって全く俺のことがわからなくなってからも、『帰るよ』って言うと必ず『気をつけて帰るんだよ』って言ってくれたおばあちゃん。今は俺が2歳の頃に死んじゃったおじいちゃんと天国でたくさん話してるかな。

さて、最後に親父の話に戻りますね。
73歳になってもいまだにゴルフで一度も勝てたことがない親父。それでもさすがに飛距離が落ちたから俺がドライバーですげー飛ばすと『すげーなー!』自分のことのように喜んでくれます。それもようやく最近のことで、学生時代褒められた記憶ないし、一度目の離婚してからは学校行事にも来てくれたことないし、言うたら親父の親友のおじさんが代わりにきてたし。あ、後述忘れてました。ピラニアの話ですが、このおじさんから言われたんですよ。『お前の親父ピラニア(女を食い散らかしちゃう)だけど、こうすけはまともに育ってよかったよ。』って。『おじさん、俺もしっかり子ピラニアだよ。』と心の中で返事しておきましたけどね。3回目の結婚の時は相手が初婚で俺たち新婚だから一緒に住めない言われたし。スナック出勤前に作ってくれたおにぎりはいつも香水の匂いがしてた親父ですが、不思議と一度も恨んだことがないし、なんなら尊敬してるし、大好きです。

最後に薄情しますが、いまだに本人目の前にして『親父』って呼んだことはありません。 『お父さん』です。笑
73歳になっても昼はカフェ、夜は焼肉屋やってて、仕事休んでくれないので連れて行けないのですが、いつか近い将来、全部俺の金で旅行に連れて行けたら『親父』って呼んでみようかな。

さらなみだ。うり、あぼじ。